体験記・紀行文
筆談の恋
初めての海外出張は1972年春先の二週間、行き先はシンガポールだった。当時勤務先の会社は、全世界現地法人化を基本方針としていた。ところが、東南アジア諸国では未だ現地の有力代理店を経由して製品の販売を行っていた。
出張の目的は、現地代理店との当面の友好とセールスマン教育、それと近い将来現地法人化するための市場調査という難しい任務である。
香港から乗ったシンガポール・エアラインの飛行機が、満点の星空の下のチャンギー国際空港に近づいたときの感動は今も忘れない。エキゾチックなチャイナ服に身を包んだスチュアーデスの機上サービスで既に興奮していた若き日本企業の尖兵は、その夜から過ごす夢の島での暫しの滞在に胸が膨らんでいた。
緑と清潔感に溢れ、国全体が一つの公園のようなこの小さな国際都市国家は、アジアの人種の坩堝と言われていた。もっとも、社会の重要な仕事は中国系の人たちで占められている。それも幼児期から一貫して英国系の学校教育を受けた上流の中国系シンガポーリアンが中心であった。中国人であるから、日常お互いの間での会話は主として中国語である。ところが、面白いことに英国系教育を受けた中国人のほとんどが、漢字を読んだり書いたりが出来ないというのだ。
ある晩、取引先の中年の中国人重役と私がホテルのバーで飲んでいるときに、若く美しい中国人女性が同席することになった。家に帰れば英国系の学校で教鞭をとる立派な中国人の奥さんがいるのに、おとなしそうなその女性を「ガールフレンドだ」と私に紹介した。私を接待する序に、その女性も呼び寄せたようだった。時々彼ら二人は私を放っておいて、中国語で何やら親しそうに話しをする。
男性二人の英語での会話には無関心だったその女性が、ふとペンと紙切れを取り出して簡単な漢字の文章を書いて私に示した。驚いたことに男性の方はこれを見て、「何が書いてあるのだ。あなたには意味が分るのか」と真剣に英語で私に聞いてきた。彼には中国語(漢字)の読み書きは全く出来ないことが分った。一方、彼女は英語が一切理解できない。
興に乗った私は、漢字で女性との筆談を開始した。女性の方も満面に笑みを浮かべながら応じてくれる。私の方は勝手な漢字の羅列だが、何とか意思の疎通は図れた。男性は苦々しい顔付きで我々二人の遣り取りを、黙って見つめているだけだ。しかし、筆談の相手は取引先の役員のガールフレンドであるから、それ以上親しくなるわけにはいかない。ついに、その女性が最後に書いた文字「再見」が具体化することはなかった。
美しく可憐な女性であったから、初めての海外出張のほろ苦い思い出となる。
半年後、純情な若き日本人は米国駐在を命じられてニューヨークに飛び立った。それから数年後には、シンガポールにも現地子会社が設立されることになる。現地社員は英語が理解できることが必須用件だったから、件の女性は入社してはいないはずだ。