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エッセイ・コラム 芸術・芸能・音楽

仙石原の「ガラスのトンボ」

平尾 富男

 合わせた両羽根を肩からまっすぐ天に向けて直立させた、高さ20センチほどのガラス製のトンボが「ブガッティ」の鼻面に停まっていた。

 箱根の仙石原には幾つかの興味深い美術館がある。中でも、フランス高級クラシック・スポーツ・カーのブガッティ(Bugatti)が、四面をガラスの壁に囲まれて庭園の片隅に鎮座している「ラリック美術館」は特異な存在だ。

 そもそも、ここにスポーツ・カーが展示されている理由は、車全体から見ればその千分の一、いや万分の一の大きさしかない小さな装飾品のためなのだ。それは、エンジンの前面に配置されたラジエーター・キャップに装着されたアクセサリーである「カー・マスコット」なのである。
 普通は金属で作られていたから、ガラス製のカー・マスコットは珍しく、ラリックによる優美なデザインのものはフランスだけでなくイギリスやアメリカでも大変な人気を博したという。このブガッティに装着されたカー・マスコットこそがルネ・ラリックの作品。この美術館で最も重要な展示品の一つであるガラス製「ドラゴンフライ」なのだ。

 ルネ・ラリックは、1860年にフランスのシャンパーニュ地方に生まれ、宝飾細工師として腕を磨き、アール・ヌーヴォーからアール・デコまでの美術ムーブメントの中でガラスという素材を得て花開かせて時代の寵児となったアーティストである。ダイヤやルビーなどの貴石だけが素材の主流であった当時の宝飾品の世界に、半貴石や七宝、そして何よりもガラスを使用しながら、ロダンなどの彫刻の巨匠の影響を受けて、彫塑的な造形力を活かしたデザインで斬新な世界を創り出した。
 ラリックが後世に残した最大の功績の一つは、ガラス工芸を芸術の域にまで高めただけでなく、独自の量産技術を開発して、芸術を産業に結びつけたということである。香水を入れる壜に意匠を凝らし、その名を大いに高めた。

 この偉才な芸術家は、パリと南仏を結ぶ豪華列車「コート・ダジュール号」の内装デザインも手がけた。ミラー加工されたブドウと人物像のガラス・パネルを連続して配置し、列車という移動の空間を無限に広げることに成功した。そのガラス・パネルで装飾されたオリエント急行のサロン・カーが、ヨーロッパから仙石原に運び込まれ、「ル・トラン」としてこの美術館に特別展示されている。
 ル・トランに「乗る」には、美術館の入場料とは別に二千円強の「乗車券」の購入が必要だが、コーヒーとデザート付で、サロン・カーのガラスが織り成すラリック魔術を、映像説明を受けながら体感することができる。

 数多くの美術品鑑賞と広い館内散策に疲れたら、20メートルは越えるケヤキの木立に囲まれ、その前にテラスを備えた横長の正面と奥の側面がガラス張りのレストランが併設されているから有り難い。しかも、かつてのテレビ番組『料理の鉄人』にも出演したことがあるという一流料理長によるフランス料理を味わえるのだ。
 木漏れ日と美味しい空気に包まれて、見てきたばかりの多くの作品とそれらを創り出した芸術家に想いを馳せながら、優雅なひとときを過ごすのも好いではないか。

 美術館を後にして駐車場に向かうと、ガラスのトンボならぬ本物のシオカラトンボが車のボンネットに停まっていた。

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