体験記・紀行文
小布施の北斎
7月初旬、善光寺を参拝した翌日、小布施に遊んだ。
小布施は600年の歴史を有するという栗の生産地として有名で、現在も栗おこわや、栗かなこ、栗羊羹などの銘菓で全国に知られている。本場の栗おこわ御膳を、友人が予約しておいてくれた創業元治元年という「風味堂」で食した。他の客もいない窓が開け放たれた広い空間でゆっくり味わう。車の運転をしないで済む列車とバスの旅だから、爽やかな風に吹かれてビールを堪能できたのも左党としては嬉しい。
この小布施での発見は、幕末維新の激動期に「国利民福」の信条をつらぬいた小布施の豪商である高井鴻山と、晩年の葛飾北斎の交流である。自身も絵画や書に優れた作品を残したが、鴻山の最大の功績は83歳のときに初めてこの小布施を訪れた北斎を歓迎し、「碧い軒(へきいけん)」というアトリエまで与えてパトロンとなったことである。北斎もこの地を愛し90歳で亡くなるまでの間に何度も小布施を訪れ長期滞在をして今に残る大傑作を描いた。
その小布施の街の鴻山屋敷跡に、北斎の傑作肉筆画の数々を展示する「北斎館」が建てられている。まさかここであの有名な「男波(おなみ)」「女波(めなみ)」の「怒涛図」の実物を鑑賞できるとは思わなかったから大感激である。巨大な「祭屋台」の天井絵として描かれた二つの迫力のある波の絵には、圧倒されて声も出ない。
「富嶽三十六景」他、生涯にわたって波を描き続けた北斎だが、ここで見る「怒涛図」の一対の「波」は、他のどの波とも異なっている。120センチ四方の板に描かれたその大きさだけでなく、波そのものが主役で、他には何も描かれていないからだ。
波は青と緑に描き分けられ渦巻きながら「卍」を描くような構図になっている。90歳で亡くなった北斎の墓碑銘が「画狂老人卍」となっていることと、この波の構図の間には北斎の秘めた意図があるに違いない。北斎没年は、開国の使者ペリーが黒船に乗って鎖国の扉をこじ開けるわずか5年前のことだった。時代の大きな波のうねりを予感していた北斎老人の、時の為政者の混乱・無能振りに対する憤りが込められていたのでは。実際にこの肉筆作品にじっと無言で対峙していると、こんなことを考えてしまう。「怒涛図」はそんな力で見る人に迫ってくる。
この小布施で、もう一つ北斎肉筆の巨大天井図が見られるというのでタクシーに乗った。「北斎館」から10分も乗ると、のどかな果樹園の中に古刹「岩松院」がある。かつて北斎や小林一茶も訪れたこの寺の本堂大広間の天井を飾るのが「八方睨み鳳凰図」で、21畳敷の天井いっぱいに五色の翼を広げた鳳凰が描かれていた。
以前は寝転んで眺めたというが、現在は大勢の見学者が椅子に座ってガイドの説明を聞きながら鑑賞するようになっている。この絵は北斎が亡くなる前年(1848年)の89歳に描いた肉筆画として、多くの見学者を惹き付けている。北斎の人並みはずれた才能と体力・気力を感じさせる迫力満点の作品である。
当代一の売れっ子でありながら破れ長屋で赤貧にあえぎ、旅をしてただひたすら描き続けて、生涯に残した作品の数は数万点におよぶ。その功績は海外でも高い評価を得ている。1999年には雑誌『ライフ』で「この1,000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」の中に、ただ一人の日本人として挙げられているのだ。
長閑な小布施の環境の中で、謎に満ちた不出世の天才絵師の心の一端を覗き見る感動の一日であった。