二人のばあちゃん
我が家のそばにある武蔵関公園は、桜花絢爛の時季になると、池の水面はピンクの花筏に染り、多くの貸しボートで賑わった。
公園の入口に佇む一軒の鄙びた茶屋。その勘定机にいつも座っているのは〝くいっちゃんのばあちん〟。呼び名の由来は、茶屋を営む息子が〝田中久一〟と言ったからだろう。
ばあちゃんは或る特技を持っていることで有名だった。それは〝立ち小便〟。
買い物や散歩に出ると、時折、木陰に身を潜めては、杖を傍らに立てかけ、着物の裾をひょいと捲くり上げると、立ったまま、見事に用を達す。住民の絶賛の的だった。
子供たちも、その珍光景を見たさに、ばあちゃんを見かけると、熱中していた遊びもそっち退けにして、遠巻きに後を追う。ばあちゃんもとうに子供たちの気配を背後に感じ、その魂胆も見抜いている。
或る日、いっこうに木陰に隠れないのを執拗に追い続ける子供たちに、ばあちゃんはついに杖を振りかざして怒った。
「この悪ガキどもめが!」
魚の群のようにパッと散っては、またサッと寄り集まる洟垂れ小僧たち。
しばらく続いた余りのしつこさに、
「もういい、今日は駄目だ、止めよう」
と、ガキ大将だった僕は仲間を制して元の遊びに戻った。
その日以来、ばあちゃんは通りすがりに僕を呼び止めては、懐から飴玉や饅頭を取り出して、そっと握らせてくれるようになった。
昭和19年、小学4年生の頃。戦争も悪化をたどり、食糧難の大波が世間を覆っていた頃である。ばあちゃんがくれるオヤツは、僕にとっては天の恵み。賤しくも、ばあちゃんに会えるのを、いつの間にか期待するようになっている僕だった。
翌年、5年生になった。激しさを増してきたアメリカの空襲。近くの中島飛行機工場が敵の目指す的。幾度もの爆撃でついに壊滅した。周囲の民家も大きな被害を被った。
難を逃れ、学年こぞって集団疎開をしたのは終戦の年、昭和20年も春。疎開先は群馬県桐生の山間にある古寺。
楽しいはずの集団生活は、瞬く間に極度の飢餓とノミ、シラミの蔓延に襲われた。
毎日、腹がへって腹がへってたまらないのである。こんな時、親元にいれば、タクワンの切れ端や芋の尻尾などで、その場を凌ぐことができただろう。だが今、東京は遥か地平線の彼方だ。
数か月もしないうちに、手足がゴボウのように細くなってしまった子供たち。自由時間になるのを待ちこがれ、獲物を漁る野良犬のように、裏山や村中を彷徨(さまよ)い歩く。
畑にはよく育ったジャガイモやサツマイモが誘惑の手を差し伸べている。だが、その手には乗れない。盗めば必ず発覚するからだ。
「畑を荒らすのは東京の疎開(そけえ)っ子しかいねえ」と、村人が寺に訴えるのだ。
その晩の先生の体罰が恐ろしい。当時の海軍に倣って、太い精神棒が骨が突き出た尻を容赦なく叩く。そしてその後の一時間にわたる板の間での正座。もう誰も農作物には手を出せなくなった。
そんな或る日、農家の庭先で草むしりをしている
ばあちゃんを発見。僕はすり寄った。
「お手伝いしましょうか」
まだ形には見えない労働報酬が目にちらついた。ばあちゃんはユルリと顔を上げ、ジロリと僕を見た。
「東京の疎開(そけえ)っ子か。ちょっくら待ってろ」
こう言うとばあちゃんは、やおら腰を上げ、勝手口へと消えた。しばらくすると、紙包を持って現れた。その中身は、少し冷えてはいたが、蒸したジャガイモが二つ。
「さ、ここで食ってけ。人に見られると、盗んだと思われるといけねえかんな」
こう言うとばあちゃんは、何事も無かったように、再び草をむしり始めた。
傍目を気遣ってくれるばあちゃんの気持に感謝しながら、僕はジャガイモに貪りついた。
思い出の中に今も健在な二人のばあちやん。共に、腰は曲がり、皺くちゃだったが、象のように優しい眼差しを今も忘れない。
〝二人のばあちゃん〟、本当にありがとう。もう僕もあの頃のばあちゃんたちの歳を越えているに違いない。人間に不死は無い。やがて僕もばあちゃんたちがいる黄泉の世界へ行くだろう。その時には、何としても二人のばあちゃんを探し当て、お礼かたがた、昔を語るのを今から楽しみにしているのだ。