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エッセイ・コラム

男鹿の大なへ

平尾 富男

 東北地方を旅すると、江戸時代後期に陸奥探訪に生涯を捧げた菅江真澄の足跡があちこちに残っている。その菅江が遺した数々の遊覧記の中に、1804年と1810~11年に男鹿半島を訪れた際の旅日記「男鹿五風」がある。それぞれ男鹿の「秋風」「春風」「鈴風」「島風」そして「寒風」と名付けられた5冊である。
 その最後の「男鹿の寒風」には、1810年に男鹿地方を襲った直下型地震について見聞したことを詳細に書き留めている。
 8月27日、「かくて未のくだち(午後2時過ぎ)、地震(なへ)の大に動(ふ)りにふりて…」とある。

 古語で、地震のことは「なゐ=ない」。方丈記にも「おびただしく大なゐふること侍りき」(=とんでもない大地震が起こった事がある)の記述がある。辞書によると、「な」は「土地」を意味し、「ゐ=い」は「場所」の事とある。菅江の「なえ=なへ」は「ない」の転用と知る。
 菅江が経験した男鹿の大地震は、27日以降も毎日のように襲ってきた。村はずれの家はことごとく倒壊したり傾いたりし、多くの人が死傷したらしい。菅江は書いた、「こはいかなる事にや、世は泥(こひじ)の海とやならん」。1ヶ月後の9月28日のことである。
 地震が直下型であった証拠に、半島の南側では特に大きく揺れたが、北側ではさほどでなかったと記している。人々は地震を怖れて、山の中に逃げ、仮小屋を作ったという。

 人々が逃げたのは、「ナマハゲ行事」ゆかりの真山神社の祀られている標高571mの真山、或いはさらに登った本山(716m)だろうか。この山には樹齢1,000年のカヤの巨木が鬱蒼と繁っている。
 車を降りて実際に登ってみると、ここに逃げてくればナマハゲが地震を追い払ってくれるから安心だと思った。絵を描くことが得意で、著作に沢山の画を挿入している菅江は、男鹿の伝統行事であるナマハゲを絵に描いた最初の人であり、各地にナマハゲを広めたとも伝わっている。

 200年以上も前に菅江が歩いた道に、今「菅江真澄の道」の標識が建つ。標柱には前述の「男鹿の春風」から「夜籠り」の一節(真山で夜籠りを見る)があった。
 この日記の日付は1810年4月7日だから、菅江が「大なへ」に見舞われる4ヶ月近く前の事である。

(2011.10.02 改訂)

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