永野護『敗戦真相記』を読んで
今年も例年のように、夏になると第二次世界大戦についての本が読みたくなった。そんな話をしていたら、兄が、「これを読んでみろ」と薦めてくれたのが永野護『敗戦真相記』である。敗戦の年昭和20年9月に永野護が講演したものを本にまとめたものである。2002年に再刊された。8月15日から1ヶ月かそこいらのときに敗戦の原因を他人に話すあるいは話せる内容とはどういうものなのだろうかと正直怪訝な思いをした。
まえがきを入れても本文は120頁しかない。著者は新日鉄の社長をした永野重雄を含む政財界で活躍した永野六兄弟の長兄で、岸信介内閣で運輸大臣を務めた。といっても、世代も離れているせいかあまり記憶にない人物である。まあ、読んでみるかと、読み始めた。
たちまち、驚いた。真正面から敗因に取り組んだ、冷徹かつ風格ある論調である。歴史から解きほぐし、人間の考察を散りばめ、証拠となる事例を引用して説得性に富む。日本がなぜ無謀な戦争をして負けたかについての本は何冊読んだだろうか。まず、それらの本に載っている事項はほとんど網羅され簡潔に濃縮されている。しかも根源からの考察である。出だしはこうである。
日本の国策の基本的理念が間違っていた。大東亜共栄圏の名の下に、肝(はら)の中では自分だけ栄えるという考え方があらゆる国策にあった。他国との協調から成り立つ自由通商主義を忘れ、自給自足主義に走った。これは、日清・日露から第一次大戦の戦勝国になった得意な時代にその禍因があり、「事を敗るは多く得意のときに因す」であったとする。司馬遼太郎がその後説くものとまったく同じである。形は世界植民地史上類のない立派な満州国を経営したにも拘わらず満州人の心は離れる一方であったこと。フィリッピンも日本が独立を与えたのに、アメリカとの戦いではむしろアメリカ側についたこと。これらは、日本人がいかに利己的であったかの証左であると断じている。目をそらしていない。
切り口がまた多彩である。「科学なきもの」「マネージメントなきもの」「国民を忘れた陸軍と海軍」「官僚の独善性」「重臣、議会、財界、文化各方面の無気力」などいろいろあるが、感心したのは、人間教育の視点からの指摘であった。
日本にとって最も不幸だったのは、これら諸種の事情が、日本有史以来の大人物の端境期に起こった。明治維新三傑の一人でもいたら、否、それほどの人物でなくても、伊藤博文、山県有朋のごとき政治家、また軍人とすれば陸軍の児玉源太郎、大山巌、海軍の山本権兵衛、東郷平八郎のごとき人物がいたならば、歴史は書き換えられていたであろう。では、なぜ大人物がいなかったのか。
明治維新前における日本の教育目標は、武士としての人間の完成であったが、明治以後は、人間としての鍛練を忘れて技術の習得をもって唯一の目標とし、その人生観は立身出世主義に堕するに至ったからだと説いている。いわば大黒柱のない建物に大暴風雨が襲ってきたので吹き倒されてしまったのだという。その意味で、新しい人格教育が必要であると力説している。六十年以上経ったというのに、ずきりと胸に突き刺さった。
最後の言葉もいい。
「思えば、皇紀二千六百年、この長い過去の二千六百年と、さらに、それより長い将来の日本の国の生命を思うときに、明治維新に始まった、この八十年の変化は大相場のアヤに過ぎないともいえましょう。私は、この悠久なる国史の発展の跡をふり返るときに、日本国民がいかなる苦難をも突破し得る適応性を有することを認めざるを得ないのです」
時間がかかろうと腰を据えてやろうではないかという言葉も今にぴったりだ。これだけのことを、敗戦1ヶ月目にして話せる人がいたとは!
筆者は、歴史をよく勉強していることは間違いない。戦前戦中も、冷徹な目で現実のできごとの裏まで見通していた。指導者をはじめとして日本人全部を深く観察していた。その上に立って、なぜかと自らに問いかけつつ、熟考していたのであろう。その大きな蓄積が、敗戦の年の9月、言論の口かせがとれるや、一気に噴出したのだと思う。
国を憂いて、戦時にもこれだけのことをひとり考え続けていた人が存在したこと自体に感動した。我々には、まだまだ学ぶべき先人がいるようである。
永野護 『敗戦真相記』 2002年刊 バジリコ出版社