時価発行増資という曲者(その2)
資金コストに対する誤解
プレミアムの還元の合意が履行されなかった原因は、時価発行増資の本質と基本が周知徹底しなかったことにある。中でも、時価発行増資で調達した資金は「コスト不要」という誤解は致命的な弊害をもたらした。すなわち、株価の高い時に可能な限り大量の資金を調達するのが得策であるという考えを蔓延させ、巨額の遊休資金を生み出したのである。この状況は、現在でも変わっていない。リーマン・ショック以降、三大銀行や、野村証券、大手電機メーカーなどが数千億円の単位で大型の時価発行増資を行なっている。
確かに、一定期間は、プレミアム部分には配当負担はかからなかった。しかし、プレミアムを還元する義務を履行すると配当負担は大幅に増える運命にあったのである。
本来、株主資本はリスク・マネー(注5)であり、その資金コストは他の資金調達手段と比較して高い性格のものである。
以下は、1981年頃に時価発行ルールに従ってプレミアムの還元を行なった場合の資金コストの試算である。取り上げたのは、1981年にトヨタ自動車が行なった株式の時価発行である。
増資の内容は、発行株数:7000万株、発行価格:1415 円、増加資本金:35億円、プレミアムの額: 約955億円、増資に要した手数料:34億7千億円であった。
試算の前提は、配当金:28%、時価発行に関するルールに基づき2回の10%無償交付を行なうとした。
試算結果は、資金コストは12.1%となった。当時の長期貸付金利は9%前後であったので、非常に高いものであることが判明した。
この試算には後日談がある。中央経済社に依頼されて、この結論を、同社の月刊誌「企業会計」(1982年)に寄稿した。この試算結果が、経済団体連合会の資本委員会の研究会で取り上げられた。その研究会に出席していたトヨタ自動車のトップがこの試算結果を読んで驚き、同社はこれを最後に株式の時価発行を止めたという。
しかし、ほとんどの会社が、トヨタ自動車のトップのような行動は取らなかった。むしろ、このような厳しい事実を知ってか知らずか、プレミアム還元の義務を履行しないまま、時価発行増資を続行した。現状は、還元義務を履行しなかった会社が、誠実に対応した会社より得をしたという不公平な結果になっている。
時価発行神話の誕生と株価工作
世の中に、「必ず儲かる」という旨い話は多くは無い。しかし、時価発行銘柄だけは、平成バブル崩壊までは、ほとんど例外無く払込期日の時点で確実に儲かった。
時価発行増資には三回のブーム有ったが、ブーム毎の「払込期日の時点で確実に儲かる状況」を分析した結果は次の通りであった。
第一次ブーム時(1072~73年):84銘柄で平均値上り率が15.1%
第二次ブーム時(1981~82年):180銘で平均値上り率が7.7%
第三次ブーム時(1988~89年):214銘柄で4.4%
(値上り率は発行価格と払込期日の時価との乖離率、対象としたのは発行額が30億円以上の銘柄である)
これは、時価発行新株式の割当てさえ受ければ、何の努力も何のリスクも無しに、確実にこれだけの値上り益が得られたことを意味した。
これらの値上がり率は全銘柄の平均値であるが、個別には次の通り、驚くべき値上がり率を示したものが多く存在した(括弧内は値上り率%)。
第一次ブーム時:日興證券(61.0)、大和證券(54.3)、野村證券(49.1)、鹿島建設(38.2)、丸紅(34.3)、久保田鉄工(32.7)。
模範を示すべき証券会社の時価発行銘柄が50~60%という極端な値上りをした。引受業者としての証券会社の資格を疑わせるものであった。
第二次ブーム時:大手証券会社(25~26)。
第三次ブーム時:大王製紙(39.0)、日本信託銀行(25.8)、阿波銀行(23.9)、千葉興業銀行(22.6)、日立建機(22.3)。
「払込期日の時点で確実に儲かる」などという、本来あってはならないことが起こり得たのは、株価工作がいろいろな形で行なわれた結果であった。
株価工作は、「適正な発行価格」という重要な基本を逸脱し、法治国家に有るまじき行為である。証券取引法によって禁じられ、道義的にも許される行為ではない。
そのような株価工作が堂々と行なわれたのは、法律に欠陥が有ったためであった。
わが国では、発行価格が決まってから払込期日までの期間(待機期間)に証券取引法で時価を額面以上に保つための株価安定操作が特例として認められている。
待機期間は、額面発行時代に設けられた制度で、投資家が投資判断を行なうための期間である。この特例を巧みに利用した株価工作によって時価が嵩上げされ、払込期日の時点で時価が発行価格を大幅に上わり確実に儲かる異常な状況が定着した。これが、時価発行増資の本来の在り方を決定的に歪めた。
払込期日の時点で確実に儲かることになったために、発行価格をいくら高く設定しても、新株の引き受け手を確保できるようになった。その結果、発行価格が決定されるまでの段階で株価工作を行なって時価を吊り上げておいて発行価格を高く設定することが行なわれ始めた。
1980~90年代に、わが国の株式市場は「三割市場」と呼ばれた。これは、上場企業の既発行株式の七割が機関投資家や法人に保有されていて、市場で取引されているのは三割に過ぎないことを意味した。一般の法人がリスクの大きい株式を大量に保有するのは異例のことであるが、この時期に大量の株式投資が行なわれた背景にはこのような事情が有ったのである。
法人間の株式の持ち合いが大規模に行なわれたことは次のような事実に表れている。
・法人の保有比率が、時価発行制度の導入直後の1970年度の55.5%から90年度の73.1%へと急増した。そのうち、株式投資を経常業務とする生保会社を除く増加幅は、15.6%(45.5%→61.1%)という異常に大きいものであった。
・全体の時価総額が急増する中にあって、法人の保有比率が異常に大きく増加した。
第三次バブル期(1986~90年)だけで246兆9千億円も増加した。1989年度末の残高は446兆であった。
・平成バブル期における法人による株式の買い越し額も異常に大きかった。
1986~89年の4年間に、金融機関と事業法人の合計が24兆円の買い越しとなった。同じ期間に時価発行で調達された資金量は62兆円であったので、約40%が株式投資に向けられたことになる。
このような法人による株式保有高の増大は、株式市場の需給関係を逼迫させ、株価工作によって時価を上昇させるのを容易にした。また、平成バブルの崩壊で株式市場が崩壊し、法人(特に金融機関)が巨額の損失を被った。そして、資産内容の健全化のために保有株式の放出を余儀なくされ、大きな株価下落要因となり、平成バブル崩壊から20年以上が経った現在でも株式市場低迷の要因となっている。
平成バブルをめぐる謎
わが国は、平成バブルが崩壊するまでは、世界に冠たる経済を誇り、さらなる豊かな国つくりが可能な位置にいた。しかし、崩壊後、わが国の経済は未曾有の大不況に陥り、財政赤字の拡大、雇用の悪化、年金基金の財政難など構造的な大問題が山積している。
平成バブルは、悪質さやスケールの大きさ、崩壊による弊害の甚大さなどの点で、世界に類を見ないバブルである。したがって、平成バブルの原因究明は、わが国のみでなく世界的に重大な問題である。しかし、その肝腎の原因は、未だに、公的機関によっても学識経験者によっても解明されていない。
原因については、多くのエコノミストや学識経験者が、金融政策や財政政策の失敗、銀行を筆頭とする金融機関の過剰な貸し出し、政治的リーダーシップの欠如などを挙げている。しかし、平成バブルのような大規模で悪質なバブルは政策の失敗といった程度のことでは生じない。
平成バブルは、株式や不動産、ゴルフ場の会員権などの「資産」だけが値上がりして発生した点に異質性がある。それでは、誰が、どのような資金を使って、このような資産に対する大規模な投機を行なったのか?既述の通り、基本逸脱の時価発行増資によって大量の良貨が悪貨に変えられ、これらの資産への投機に流用されたのである。
この他にも次のような不可解な謎があるが、すべて時価発行増資で説明がつく。
①一般物価はまったく上昇せず、不動産や株式などの資産価格のみが異常に上昇したのは何故か?
⇒ 多くの上場企業と金融機関が、本来の資金需要が無いのに、大規模な時価発行増資を行なった。その結果、巨額の遊休資金が蓄積され、企業が不動産や株式などの資産への投機に走り、金融機関が不動産関連の貸付や不動産担保貸付に走ったからである。
②厳しい金融引締め政策が実施されたにも拘わらず、不動産価格や株価が1986年から90年にかけて3~4倍も急騰するのが避けられなかったのは何故か?
⇒ 投入された資金が時価発行増資で調達された自己資本であったので、日本銀行による金融引締めが効果を発揮しなかったのである。
③過剰流動性に伴うバブルはすべての国に発生するが、株式や不動産などの資産が平成バブルのような規模で値上がりした事例は世界に類が無い。わが国だけにこのように異常な資産バブルが発生したのは何故か?
⇒ 基本を逸脱した時価発行で大規模な資金が調達され、投機に流用されたのはわが国だけだったからである。
④平成バブル崩壊後に経営不振に陥ったのが、ほとんど全部銀行等の金融機関であったのは何故か?
⇒ 第一に、金融機関は、日本経済の低成長化に伴う資金需要の減退に対処して、①の原因で水膨れした不動産を担保にした貸付を急増させが、それが不良債権化した。
第二に、国際決済銀行(BIS)に迫られた自己資本比率の改善を時価発行増資で安易に図ったために、不良債権が温存された。
第三に、時価発行増資の際に取引先と行なった「株式の持合い」の取得コストが実力不相応に高かったために、バブル崩壊後に株価が暴落して巨額の評価損を被った。
⑤このように重大なことが公にされないのはどうしてか?
⇒ 時価発行増資に関与した当事者たちが自分たちは自分たちに不利になるようなことは語らないからである。
(注記事項)
5 リスク・マネー
大きな損失を被るリスクを覚悟の上で、高いリターンを期待して、提供される資金のことを言う。株式による出資あるいは株式投資が典型的なものである。経済の成熟化に伴い事業リスクが増大すると、貸倒れリスクを嫌う融資では対応できなくなり、リスク・マネーの出番となる。資金の提供側にとっても、経済の成熟化に伴い預金金利が構造的に低下するので、ハイリスク・ハイリターンの資金運用の必要性が生じる。
リスク・マネーにはリスクの見返りに相対的に高い利益が還元される。額面発行時代には一株当たり最低でも10%程度の配当が支払われていた。時価発行増資の下で調達される資金の量は圧倒的に増大したが、それに見合ったコストは支払われていない。時価発行増資によって調達される資金のコストは借入金や社債よりは高くて然るべきである。
(完)