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エッセイ・コラム

日本人の美徳

西田 昭良

 幸か不幸か、我が家の前の一角は自治会内のゴミ集積場の一つになっている。幸はゴミを捨てるのが容易であること。雨が降っても傘は要らない。さて不幸は・・・。
 今やゴミの分別は常識になっている。生ゴミ、プラ、古紙、ペットボトル、瓶缶等々。行政の収集も曜日によって異なる。だが、その分別と投棄日を守らない人が何と多いことか。早朝からカラスが〝待ってました〟とばかりに群がってくる。防御には丈夫な網で全体を被うのだが、予算の少ない自治会にはこれが可能な対策の限度である。
 プラや古紙、金物類などの収集日にはさすがにカラスも寄らなので網も掛けないのだが、収集日を無視する人が多く、台所のゴミや種々の食べ残しなどをそのまま捨てる。カラスの思う壺の分別(ちらかし)が始まり、道路いっぱいが杯盤狼籍のようになり、悪臭漂うゴミが散乱するのである。その度に我が家や良識ある周囲の人たちは、その後始末に大童。自治会の環境委員がいくら住民に分別と投棄日厳守の情宣をしても、不当投棄は後を絶たない。
 これが、ゴミ集積場が我が家の前にあるための大いなる不幸だが、幸から不幸を差し引いてゼロ。我慢するしかない、と諦めている。
 さてこの度、東日本大震災が起きた。復興策の遅延や原発処理の不手際などで、毎日暗然たるニュースが続いているが、その中で、一条の光を与えてくれたのが、日本人の美徳として海外のマスコミが大きく取り上げた次のようなエピソードである。
 地震発生時に避難したレストランの客は、地震が収まると店に戻り代金を支払って帰宅した。そのとき帰ってしまった客は、翌日わざわざ支払いにきた。
 罹災者が救援物資を混乱も無く、整然と受け取っている。暴動どころか略奪も窃盗も無い。これらは正に日本人の美徳である、と。
 このくだりを読んだ時、さすがは我が日本人、と少々鼻が高くなるのを感じたが、ちょっと待った、ともう一人の私が首根っこを掴む。その思いはもしや錯覚ではないか。
 暴動こそ起きはしなかったが、被災地、特に住民が居なくなった福島原発周辺では窃盗や空き巣が頻発して、警察も音をあげているそうだ。それを日本のマスコミがあまり取り上げなかっただけのことである。
 嫌な表現だが、食い逃げ。それが無かったことや、物資を整然と受け取るお行儀の良さは今や日本の常識、という見方もあるが、この種の善行は貧富の差によるものだ、とは昔からよくいわれている。終戦直後であったならどんな光景を呈したことだろう。
 美徳に見えるこれらの現象は、経済成長期に一億総プチブル化した日本の国民が平和に馴れ、衣装だけが綺麗になっただけ、ともいえる。
 美徳とは一時的な現象ではなく、長きにわたり、知識や教養が血となり肉となって、姿を見せないほどに昇華された品格のことだ。
 日本人の美徳を報じた同じ記者が、富士山の世界遺産不合格の原因であるゴミの山や、我が家の前に毎日のように散乱する悪臭芬芬たるゴミ、はたまた電車の中の優先席でのうのうと座っている若者たちを見たら何と感じるだろう。
 もうここらで、日本人って訳の解からぬ人種だ、という外国人の見方を一変させ、たとえ経済は三流でも、さすがに文化は一流だ、と評価されるような変身ぶりを見せてはどうだろう。

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