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エッセイ・コラム

消えた隣人

三春

 「ずっと前から怪しげな奴らだと思ってたのよぉ。やっぱり中国人は信用できないねぇ。見かけない男たちがここ何日もウロウロしてたでしょ、きっと私服刑事だなって、あたしゃあピンときたね。この目に狂いはなかった!」
 井戸端バアさんが近所の連中を呼びとめては得意満面で語って聞かせている。この人はいつも近所のことを嗅ぎまわっているから要注意だ。私だって陰で何を言われているかわかったものじゃない。

 中国人夫婦が住んでいたのは、我が家の階下で、兄が賃貸しているフロアの一部である。彼らは六年以上もここに住み、大田市場で働いていた。新鮮な野菜や果物のお裾分けもしばしば。開け放った窓からは、食事時になるといつもニンニクと香辛料のかぐわしい香りが漂ってきて、我が息子たちはこれぞ本格的な中国家庭料理だと涎を垂らしていた。そういえばこのごろあの美味しそうな匂いがしなかったのだ。
 彼らは不法滞在のかどで連行され、強制送還となった。夫婦というのは偽りで、警察が踏み込んだときは四人が暮らしていた。これまで六年間も無事に過ごしてきたのだから、多分その四人目がドジを踏んだために芋づる式に挙げられたのだろう。室内は足の踏み場もなく散らかり、壁は油煙(中華料理の?)でギトギトだ。家財道具もそっくり残したままで、後始末をどうつけていいものか、兄たちは頭を抱えた。
 それから二週間ほどして、彼らの友達だという人が鍵を返しにきた。次の賃借人を募集するには、家財の廃棄処分、壁や床などの改修に家賃八ヵ月分の費用を要し、敷金をはるかにオーバーする。保証人も役にはたたない。外国人を入居させるのはこりごりだと兄は言うが、日本人なら安心というわけでもあるまい。
 兄にはとんだ災難だが、人の良さそうな若い中国人たちのことも気の毒に思え、井戸端バアさんやどこかの知事のように「三国人は…」と一律に片づけたくはない。そしてなにより残念なのは、あの中国家庭料理のご相伴にあずかり損ねたことだ。

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