枯草のざわめき:エジプトの春
読売新聞の読者が選ぶ2011年10大ニュースの海外トップスリーは、1位「タイで洪水被害、日系企業も大打撃」、2位「ウサマ・ビンラーディン殺害」、そして3位に「チュニジアで長期独裁政権が崩壊、エジプト、リビアにも『アラブの春』」が入った。私は、この中東諸国起こった一連の民主化運動、ことにエジプトの動向に、数年前に現地で見聞きしたことから特別の関心を持っている。
2004年11月に地中海世界を一緒に巡っている相棒とエジプトを旅した。悠久の5000年の文明遺産を訪ねるとともに、『出エジプト記』に記されているモーセの伝承を辿ってシナイ山頂に登る観光旅行である。それはそれで期待したとおり、一度は観ておくものを見物できて満足した。
それに加えてその旅は、普段勉強不足の私に思わぬ収穫をもたらせてくれた。今を生きるエジプトの諸々の姿を現地で垣間見て、深い印象を受けたのである。
当時は、2001年の911テロの熱(ほとぼり)醒めやらず、2003年3月アメリカ主導ではじめたイラク戦争はフセイン政権を倒したものの混乱の最中など、連日各地で物騒な事変が報じられていた。
そしてあろうことか、この旅行に出発する一月前にシナイ半島の東端、イスラエルと国境を接するゾート地タバなどでイスラム主義者による爆破事件が起き、30人余りの死者が出たのである。
さすがに、のんき者の私たちもビビった。しかし、旅行会社は、今度行くコースは事件が起きた場所とは遠く離れた所、かつ観光立国のエジプトは国をあげて観光客の保護に万全を期しており、外務省も危険情報を発していない、と説明する。それで安心したわけではないが、行きたい気持ちが強かったので、「この歳になったら、いつ何が起こるか分からない」と、屁理屈をつけて参加することにした。
現地に来てみると、観光スポットには多数のポリスを配置し、バスドライブには観光ポリスが同行するなどたしかに観光客の安全に力を入れている。もっともポリスの中にはいい加減な者もいる。私がピラミッドの写真を撮っていると、警備中のポリスが寄って来て、シャッターを押してもらったらチップを要求された。
エジプトはイスラムの大国だが、当地では911テロ以来刷り込まれてきたイスラム教は怖いという感じはしない。1日5回の礼拝やラマダン月の断食、それに禁酒や豚肉忌避など、イスラム教は日常の行為を律する生活宗教の色彩が強いと見受けられる。
このツアーはラマダンと時期が重なり、イスラム教徒の実生活の一部をのぞき見ることができた。日没の前にモスクに前に大勢の人が集まり、振舞われる食事を待つ光景が瞼に残っている。現地ガイドの助手を務めるモハメッドさんはイスラム教徒で昼食をとらない。ただ礼拝は、定時になっても仕事中は行わず、休み時間に携帯した敷物の上で拝んでいた。
一方、コプト教徒(古いキリスト教の一派)のチ-フガイド、モーセンさんは、私たちと一緒に談笑しながら食事をし、ワインも飲む。モハメッドさんの拝礼中はわれ関せずの体である。
彼は、カイロ大学出身で極めて博識な上に完璧な日本語を話し、しかも情熱的な三十半ばの男。ツアー旅行の成果はガイドの良し悪しで決まるところが大きいが、この旅行は大当たりだった。
モーセンさんが信ずるコプト教の信者は住民の1割。少数派ではあるが、日本のそれは1%と聞くから比べれば相当の存在感がある。彼の話によると、住民の9割を占める圧倒的多数のイスラム教徒とコプト教徒は、基本的な問題を抱えながらも、なんとか融和しており、少数派が圧迫を受ける場面は少ないそうだ。今考えると、その背景に長期にわたるムバラク政権の親米・新イスラエル政策があり、過激なイスラム教徒を力で抑え込む圧政があったのだろう。
国内で独裁を続ける一方で、ムバラク大統領はしたたかにアラブ陣営との関係改善も果たし、アラブの盟主として中東和平の仲介外交に務めた。
その象徴的なセレモニーが、私が帰国した翌日の11月12日にカイロで行われた。ノーベル平和賞を受賞したPLOのアラファト議長の葬儀である。再燃したパレスチナ問題を巡ってお互いに反目する各国の首脳たちも、カイロならそれほど抵抗なく集まれると、ムバラクが申し出て実現したという。なかなかやるものだ。
話は飛ぶが、昨年2月ムバラク政権が倒れた後、コプト教会がイスラム教徒に襲撃されたり、信仰の自由の保障を求めるコプト教徒のデモが軍に弾圧されたりする事件が時々報じられる。独裁を廃した結果抑えが利かなくなり、コプト教の受難がはじまったのか。モーセンさんたちのことが気に掛る。
ところで、日本の政府は、エジプトの仲介外交の役割を高く評価して少なからぬ経済援助をしている。私たちが通り抜けたスエズ運河を潜るトンネルも、運河の直下を除く両端の長い部分は日本の援助でできたそうだ。さらに2001年には長い運河の中ほどに日本の経済的技術的協力を受けて大きな橋が完成し、「日本・エジプト友好橋」と名づけられ、同国の国民に歓迎されている。
恥ずかしながら、これはモーセンさんからの聞いた話の受け売り、私は知らなかった。それどころか、日本びいきの彼がいうことだから、一般の人がどう感じているかは疑問と内心思っていた。
しかし極最近の話、去る11月28日からはじまったエジプトの人民議会の選挙は、同国の要請に応えてJICAをはじめとする日本の支援で実施されたとの報道を目にした。日本を頼りにする訳は、「エジプトの民衆は日本が内政干渉をしないことをよく理解しているから」だそうだ。こういう情報はもっと喧伝されていい。これまでの関係者の地道な努力が実を結んだのである。
「アラブの春」は、1968年春チェコスロバキア(当時)起きた自由化・民主化運動「プラハの春」になぞられて命名されたことはよく知られている。語感がよく、いかにも厳しい冬は去って開放的な春が訪れるイメージが浮かぶ。しかし、元祖「プラハの春」はその年の夏にソ連側の武力に圧殺され、冬の時代に逆戻りした。再び春が巡ってくるには、1989年の「ビロード革命」まで20年以上も待たねばならなかったのである。
むろん当時の東欧諸国と今の中東諸国は国内状況も外部情勢も大きく違う。
チュニジアで起こった「ジャスミン革命」を発端とする今回の民主化運動は、若者や知識層がSNSなどのネットを使って情報を流して民衆のエネルギーを高め、隣国に民主化活動を伝播させた。この新しい動きは独裁政権を倒すのに有効であり各国で成果を挙げたが、これから新しい国の枠組みを創建するには、燃える情熱とともに冷徹な政治力が求められる。なにしろ、世界の強国が利権を狙って工作しているのだから、古い独裁者を倒しても新しい権力者に代わるだけということに成りかねない。
「アラブの春」がそして「エジプトの春」がどうなるか、長い目で注意深く見守りたい。