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エッセイ・コラム

枯草のざわめき;「受注初体験の記」

濱田 優(ゆたか)

 もう40年も昔、勤め先の本業石油化学の成長に翳りが見え、新規事業の開発に力を入れはじめたころの話である。

 私は、自社工場の公害防止対策で培った技術と経験を活かして環境関連の新規事業を立ち上げる企画・開発業務に携わり、廃水処理装置の販売を始めたときは自ら営業に出た。何ごとも初体験は印象深いものだが、苦心の末に初めて注文をもらったときの感激は忘れられない。ことに最後の価格交渉の場面は、今もディテールまで憶えている、他のことはほとんど忘れたのに。

 そのころは公害対策が大工場から中小工場に普及する段階で、引合いは活発だったものの、前向きの投資でないからだろう、なかなか成約出来ない。新米営業マンの私は焦り、毎週月曜の営業会議が苦痛だった。

 千葉の金属加工メーカーK社からの引合いもそんな案件の一つで、金属表面処理の工程から出る含油廃水の処理装置を直ぐにも設置したいというので、大急ぎで資料を作成し計画書と見積書を提出した。なのに、その後なんだかんだと言ってなかなか発注してくれない。
 5月末のある日、大きな進展は期待できないが、しかし間を空けると他社に食い込まれる懸念があると代理店がいうので、担当のTさんと一緒に定期訪問に出掛けた。ところがいつもと様子が違うのだ。

 開口一番、今から発注して9月末迄に装置が納入出来るか、このままだと工場が操業停止になってしまう、とお客の施設課長は慌てている。前から監督官庁に廃水の垂れ流しを咎められ、改善命令が出ていたのに、こちらが出した計画書を見せては、検討中と称して一日延ばしに対策の実施を先送りにしていたらしい。今日最後通牒が来たと言う。

 後4ヶ月しかない。予定納期6ヶ月なので無理な注文だが、対応出来れば初受注のチャンスだ。時間を貰って技術担当に電話した。今直ぐ主要機器を先行手配すれば、装置はなんとか出来そう。だが、試運転と手直しの期間は別途必要との返事だった。

 お客と再打合わせに臨む前に、普段は控えめのTさんから、これからの攻防が本当の勝負、自分が仕切るから相手に何を言われても、あなたは勝手に答えないようにと釘を刺された。私には彼の意図がよく解らなかったけれど、こんな場面は経験がないから彼のリードに任せることにした。

 工期の返事を聞いたお客は、期日までに曲がりなりにも装置の形が出来て、一部の機器でも試運転をはじめていれば、お役所も操業停止まではしないだろうと一安心し、発注の内示書を出すから直ぐ装置製作に掛かるようにと指示をくれた。私は「やった!」と内心喜んだけれど、Tさんは金額も入った注文書を今日中に出して貰わなければ間に合わない、と主張して譲らない。

 それからの値決め交渉は、私の想像をはるかに超える厳しいもので、緊張の連続だった。今までこちらの見積書に相手があまり煩いことを言わなかったのは、提出した資料を引き延ばしに利用するだけで、本気で注文を出す気が無かったからだ。
 実によく調べている。装置の一部である汚泥脱水機について、この見積価格は定価で2割以上引く筈とか、タンク類は、自社の製造技術担当の話では、これより何割も安く出来るなどなど鋭く的を射た指摘をする。このままではコストが丸裸にされてしまう。説明を求められたらどうしよう、と私は弁解の言葉を一生懸命考えていた。
 ところが代理店のTさんは聞き役に徹し、相手に話させるだけで、私に釈明も反論も求めない。

 そのまま一時間位経った頃だろうか、風向きが変わってきた。お客の課長はいいたいことを言い尽くすと、そちらも納期短縮で大変だろうが、何とかしてもらえないだろうか、とお願い調で下手(したて)に出てきた。どうやら、自分は懸命に値下げ交渉したが、急ぐためにはこの価格は止むを得ない、と上司に言い訳するための材料探しに入ったらしい。
 ここではじめてTさんからゴーが出て、私は、長納期の機器は他社向けに製作中のものを無理にこちらに回して貰わないと間に合わない、値引きなんてとんでもない、と先刻の電話で聞きかじった話を伝えた。相手は納得顔で聞いている。

 結局、価格は端数を切り落としただけで、ほぼ言い値が通った。装置の納入は9月末試運転開始を努力目標とすることで納期保証はなし、という有利な契約条件で交渉は妥結した。

 ガイドをしてくれた代理店のTさんのお陰である。彼は未だ若いのに、営業の修羅場を何度も潜っていて交渉のツボを心得ている。
 先ず、ここが勝負どころとみたら、一気に攻め切る。この場合、ともかく急ぐからお金のことは後回しにして仕事に掛かってくれ、という相手の言葉に乗ってはいけない。正式な注文書を貰わないで走ると、いつなんどきこちらが苦しい立場に陥るか分からない、と彼は指摘する。

 そして、こちらの立場が強い時は「沈黙は金」。余計なことは何も言わない。相手の話に合わせて何か喋り出せば、なにがしかの値引きに繋がる糸口を与える、とTさんは教えてくれた。
 だが、ひたすら無言の行を勤めるのは辛い。今思い出しても、顧客の言い分を黙って聞いていた時間の長く感じられたこと。激しい議論をしたわけでもないのに、あとでどっと疲がでた。タフネゴシエーターとはいわゆる論客のことではなく、時に沈黙が一番の雄弁であることを真に心得ている、と知った。

 この初受注を振り出しに、私は環境から食品加工、物流、さらには医薬や化学の設備を設計・施行するエンジニアリング事業にのめり込み、本業の化学工業に戻ることはなかった。

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