ロシア語の父と大山巌
大学時代にロシア語を学習したこと、と云っても50年以上も前なので殆ど忘れてはいるが、日本で日本人に最初にロシア語を教えたのは誰なのかという思いが常にあった。またその人物がどうやって日本に来たのか。
先日、同窓会でお会いした東京外国語大学ロシア語教授・渡辺雅司氏が教えて下さった。彼は同志社大学教授時代、教え子に現在大活躍の元外交官・作家・評論家の佐藤優氏がいる。渡辺教授はロシア語のみならず、ロシア思想史、日ロ関係史に詳しく著書もある。
渡辺教授によると明治6年に創立された東京外国語学校(現大学)にロシア語教師としてやってきたのはレフ・メチニコフというロシア人で、日本に招聘したのは大山巌だったという。
当時、ロシアは帝政時代でメチニコフは貴族階級ではあったが、農民の苦しみを見て帝政打倒の革命家でスイスのジュネーブに亡命していた。一方、30歳で陸軍大佐の大山巌は普仏戦争などを視察のため渡欧、明治3年から3年間ジュネーブに留学、この地でメチニコフと出会う。大山は日常会話程度のフランス語は話せたし、またロシアの貴族階級はフランス語を日常会話の中で使用していたので意思の疎通に問題はなかった。メチニコフは極東の新興国日本に興味があり日本行きを望んでいた。メチニコフと大山の日本語と仏語の交換教授が始まった。メチニコフは1年半で日本語を習得したという。
大山の連絡を受けて日本においてメチニコフを東京外国語学校のロシア語教師に推薦したのは明治政府の木戸孝允文部卿であった。
当時はまともなロシア語の教科書もなく手書きの教科書を使用した。トルストイの短編集などを読んだが、詩の暗証など朗読形式の授業が多く、生徒は口述筆記をし、自然と文語体文章から離れて口語文体になっていった。明治14年に入学した二葉亭四迷(長谷川辰之助)はこの言文一致の文体を習得し、ツルゲーネフの『父と子』を翻訳したという。言文一致の文体はこの時からの始まったと言われている。
来年は東京外語でロシア語教育が始まって140年になる。最近はポーランド語やチェコ語も学習できる。
明治政府は富国強兵と脱亜入欧によって近代国家を目指したが、明治の先人たちの心意気と彼らの業績には頭が下がる。