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エッセイ・コラム

異色の友

濱田 優(ゆたか)

 大学の専門課程で一緒だったKは、大阪で生まれ育った中国人で、経済学部を卒業してから工学部にきた変わり種である。
 50年前、時代の求めに応えて大学が工学部の定員を増したころ、他学部や他校を出てから学士入学をした人は何人もいたけれど、文系から理系に移った人は珍しい。私も学士入学組の一人だが農学部出身である。

 彼と私は他の同期生より年上だったこともあり、話が合うのですぐに行動を共にする友だちになった。だが、大人になってからの付合い故か、仲良くなっても微妙に距離感を残し、幼友だちのように自分の全てを曝け出すことかった。

 彼はなぜ経済を出てから工学に再入学したのか。技系の専門科目を習得するのは大変だろうに。
 みんなが最初に聞くその質問に彼は答えた、
「将来、中国に戻って社会主義国家の建設に貢献したい。そのために文理兼ね備えれば〝鬼に金棒〟」と。
 それに引き替え、私は〈こっちの水が甘いぞ〉と誘われてふわふわやってきたホタルみたいなもの。彼の高い志を「立派!」とただ感心して聞いていた。
 しかし、実際はそんなに恰好のいい理由ではなかったようだ。最近、所属クラブの会報に彼が寄せたエッセイを読むと、そのころの彼の人知れぬ苦悩が語られている。

 経済学部を出てすぐ就職しようとしたけれど、当時、中国籍の彼はどこの会社にも相手にされなかった。そこで、売り手市場の技系なら受け入れてくれるかもしれないと、窮余の策で工学部に学士入学を果たす。しかし学部卒業のときは希望が叶わず、大学院に進学して修士課程を終えたとき、やっと海外受注の多い大手のプラントメーカーに職を得た。就職してからも、冷戦中で雪どけが進むまでは国籍がネックになり、彼の海外活動は制約されたという。

 ところで、〈お国のために尽す〉という彼の志はどうなったか。件のエッセイによると、大学生のある時期までは本気で中国に帰国し、国家建設に参加する積りだった。しかし、先立った父親に代わって一家を統べていた母親の許しが得られず、彼はこちらで職を探すことになる。
 愛国心の権化だったという母親が、なぜ彼の帰国を阻止したか。息子を手放したくないという母心なのか、それとも帰国後の息子の苦労を察しての親心なのか。このあたりのことついて、彼のエッセイは筆を端折っている。だが、結果は彼が日本に留まって良かった、と私は思う。数年後にあの文化大革命の嵐が猛威を振るったのだから――。

 Kはいつも軽妙な冗談を飛ばし、座を持たせるのがうまい。名前以外は容貌も言葉も私たちと変わらず、彼を異国の人と意識することはほとんどない。

 唯一、違うなと感じるのは、家族を何よりも大事にすることだ。
 先に述べたとおり、彼は母親の意向に従って帰国を断念した。そこで、こちらで働くならいっそのこと日本国籍を取得したい、と説いたところ、母親はそれにも反対で認めない。大人になってもそこまで母親のいいなりになるのか、と私が聞いても、彼は親には逆らえないという。結局、母親が亡くなってから彼は妻子とともに日本国籍を取った。

 彼はまた、〈家族はいつも一緒にいるべき〉との考えを貫き通した。ある海外ジョブを手掛けた際、会社と掛け合って家族全員を現地に連れて行ったという。会社の人たちは眉をひそめたそうだ。それはそうだろう、日本人なら単身赴任が当たり前だったから。私も彼からその話を聞いたとき、〈なんとわがままな!〉と正直思った。

 しかし後年、この国で熟年離婚や家族崩壊が盛んに話題にされるようになると、彼の家族愛に重きを置く考え方のほうが健全で望ましいと思えてくる。今、彼は家長として家族を束ねて君臨している。一方現役時代、家族を蔑ろにした日本の企業戦士たちの多くは、家で逆襲を受け、小さくなっているのではないか。

 これは人種というより個性によるものだろうが、彼はイタリア男みたいに私たちより何倍も女性にまめである。
 彼が電話を掛けてきて家内が出ると、聞こえの良いことをいうので受けがいい。私は彼の奥さんが今だに昔の体型を保っている美人であることは知っている。が、彼のようにスラリと褒め言葉が出てこない。
 先日彼からきた手紙に、私たちの、エッセイを交換している付合いに絡めたこんな中国の諺が記されていた。
「文章是自己的好、太々是人家的好」
 彼が付けてくれた邦訳はこうだ。
「エッセイは皆自分のものが優れていると思い込んでいる。
 女房は皆他人の奥さんが素敵だと憧れている」

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