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エッセイ・コラム

お雇い外国人

高橋 孝蔵

 日本に最初の鉄道を敷いた人は誰だかご存知だろうか。日本初の水道を敷設した人は、初めて電灯を灯した人は。彼らはみんな外国人。鉄道は英人エドモンド・モレル、水道は英人ヘンリー・パーマー、電灯は英人ウィリアム・エアトン。
 科学や技術だけではない。法制度の基礎を作ったのも外国人である(民法・刑法は仏人ギュスターブ・ボアソナード、憲法制定には独人ヘルマン・ロエスレル)。近代的軍隊の創設にも外国人が大きく貢献した(陸軍に寄与したのは教官として来日した仏人ジュ・ブスケ、海軍は英人アーチホールド・ダグラス中佐)。

 そして、多くの分野で外国人が指導的な役割を果たし、「父」と呼ばれる。たとえば、医学の分野では独人エルウィン・ベルツが「父」である。そして私が本に取り上げた英人ウィリアム・F.W.ストレンジは日本の近代スポーツ普及の父である。
 ここでは彼らが活躍した分野を全て枚挙するいとまがないが、日本近代化の土台を築きあげたのは彼ら「お雇い外国人」であるといっても過言ではない。

 アヘン戦争であの大国、清があっさりと英国に敗北したことは日本の為政者を震撼させた。薩英戦争を戦い、下関で四国連合艦隊の砲撃を受け、欧米先進国との力の差が圧倒的なものであることをあらためて知らされた。
 先進国に伍すためには、近代化を推し進める以外に道はない。積極的に外国人専門家を雇うことになった。政府により雇用されたお雇い外国人の数は800名強といわれている。中心は30歳前後の気鋭の欧米の専門家である。民間で雇われた外国人はそれ以上の数になるが、正確な数は判らない。彼らの来日は日本の本格的な国際化のはしりとなる。

 外国人から見た当時の日本はどうだったのだろうか。
 封建制度をやっと抜け出し始めた極東の貧しい国で味わったカルチャー・ショックは並大抵のものではなかったろう。幕末に渡来した外国人は攘夷という名の無差別テロに襲われる覚悟が必要だった。
 福井藩に教師として招かれた米人ウィリアム・グリフィスの場合、訪日を打診された時、一旦は断った。日本のような野蛮な国に赴くからには途方もない生命保険料を払わなければ生命保険契約を結べないと判ったからだ。
 後年優秀な外交官となり、傑出した日本学者となる英人アーネスト・サトウは日本への出発前にピストルと大量の弾薬を買った。攘夷武士とやり合うことは覚悟の上だった。
 明治維新になれば、さすがに攘夷の嵐は吹きやんだが、それでもテロは起きた。明治3年大学南校(後の東京大学)の外国人教師二名は愛妾のもとに行く途中、背後から斬りつけられ、深傷を負った。
 東京医学校(後の東京大学医学部)の予科で教鞭を執っていた、有名な動物学者で独人のフランツ・ヒルゲンドルフが北海道に調査旅行に出かけた際、現地で旅行を世話した函館駐在のドイツ領事ハーパーが旧秋田藩士の手にかかり、斬殺された。ヒルゲンドルフは約束の時間に遅れ、間一髪死を免れた。明治は既に7年目に入っていたのだが。

 日本での生活はどうだったのだろうか。
 大森貝塚で知られる米人エドワード・モースは東京大学が手配した西洋風の家が気に入った。また同僚と催したランチ・パーティにびっくりしている。サンドウィッチ、菓子、アイスクリームなど手の込んだ料理と飾り付けの生け花を見て、これが日本かと。東京の食生活には満足していたようだ。しかし、調査旅行で地方に出ると、パンがない、コーヒーが手に入らない。新靴と交換してでもコーヒーを飲みたいと嘆いている。

 そのモースが後に日本の哲学と美学の父といわれる米人アーネスト・フェノロサを「日本では給料の半分を貯金し、残り半分でも立派な生活ができる」と日本に誘った。因みにモースの月給は350円である。お雇い外国人の一番多い給与帯は100円から200円であるが、中には1000円を超す人もいた。日本人教師の月給が精々5、6円から10円という時代にこの給与である。生活水準の低い、何かと不便な日本に来訪させるには高額の給与が優秀な専門家を誘う有効な武器である。
 この高額な給与を背景に、新天地を日本に求めてやって来た人も少なくない。事業に失敗し、深い挫折感を味わっていた独人ゴットフリード・ワグネルは、反対に日本では博覧会を通して新技術の普及や産業振興に努め、大きな成果をあげた。ドイツ法学会から孤立し、ドイツ帝国宰相ビスマルクが作った憲法を痛烈に批判したロエスレルには祖国に居場所はなく、日本は新しいチャンスだった。
 近代建築の父英人ジョサイア・コンドルは若手の設計コンペで優勝し、一本釣りされた。戊辰戦争で幕府・薩長両軍の負傷兵士を治療した英人医師ウィリアム・ウィルスは恋の不始末を海外に出ることで清算した。ストレンジの場合は幕府の留学生とロンドンで出会ったからだ。日本行きにはそれぞれ劇的なドラマがある。
 しかし、彼らの歴史的使命も19世紀末には終わった。早くも、日本人が科学も、技術も法制度も習得したからだ。

 彼らの永遠の住処はそれぞれの故国にあると思いたくなるが、意外に多くの人が日本の土になっている。精密印刷の父伊人エドアルド・キョソーネは日本が好きで、イタリアに帰ることは考えなかった。フェノロサはロンドンで客死するも、遺言に従い、遺骨は日本に運ばれた。明治政府の最高顧問を勤めた米人グイド・フルベッキは晩年アメリカから日本に舞い戻った。日本は当時貧しくはあったが、外国人を惹きつける何かを持っていたに違いない。また多くの若者たちが志半ばにし、日本で倒れた。ストレンジは心臓麻痺により34歳の若さで亡くなった。
 彼らは青山霊園、横浜山手外人墓地、神戸市立外国人墓地などに寂しく眠っている。

 私は仲間と共に青山霊園のストレンジのお墓を命日に掃除をすることにしている。お雇い外国人に感謝する一つの方法だと思っているからだ。

Copyright (c) 2012 Kozo Takahashi
主要参考文献:
「お雇い外国人」梅溪昇 講談社 2007年2月
「お雇い外国人 1 概説」梅溪昇 鹿島研究所出版会 昭和43年4月
「お雇い外国人 3 自然科学」上野益三 鹿島研究所出版会 昭和43年6月
「お雇い外国人 5 教育・宗教」重久篤太郎 鹿島出版会 昭和43年10月
「お雇い外国人とその弟子たち」片野勧 新人物往来社 2011年11月
「遠い崖 アーネスト・サトウ 日記抄 1」萩原延壽 朝日新聞社 2001年10月
「一外交官の見た明治維新(上)」アーネスト・サトウ訳坂田精一 岩波文庫 1960年9月
「日本その日その日 2」モース 訳石川欽一 平凡社  1989年12月

関連ホームページ(高橋孝蔵) http://sutorenji-sensei.sports.coocan.jp

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