週末はドライブで
我が家に、十年ぶりに車がやってきた。
銀行に勤める次女が購入したものだ。この春から外回りの仕事になるので、今から車の運転を練習しておくようにと、上からお達しがあった為である。
十年前、今の住まいに越してきてからは車には縁がない。最寄りの駅までは歩いて十分ほどだし、近くに大型スーパーもある。車のない生活に、これまでほとんど不便を感じることもなかったのだ。
けれども最近では、嫁ぎ先から長女が一歳児の孫を連れて、しょっちゅう出入りするので、その送り迎えにも、また、年老いて足腰に不安の出てきた両親のことを思っても、そろそろ車が必要かなと考え始めていたところである。
そこで、ここは一つ、三十路を前にして、いまだ結婚する気配すらない我が家の居候、次女に便乗しようと決断した。
娘が車を購入するのに、決断も何もないだろうと思われるかもしれないが、在学中に運転免許を取ったものの、彼女には実際に道路を走った経験はない。というのも、すでにその頃、家には車がなかったからである。
う~ん、するとやっぱり、助手席には母親である私が乗るしかないだろうなあ。だけど、私だって運転をしなくなって十年になる……。なるけど、……まっ、しょうがないかな、この際。
ということで週末、まずは車がほとんど走っていない薄暗い朝の五時に、私たちは、娘のピカピカの新車で繰り出すことになった。
さすがに早朝とあって、私たちが乗っている車以外、他には一台も走っていない。
「……」
広くはないが、道はまっすぐ伸びている。なのに、どうして車は右に左にふらふらと揺れるんだろう? 運転席を見て、思わずのけぞった。ハンドルを固く握り締めた娘は、フロントガラスに顔を張り付けるように身を乗り出し、前方どころか、車の鼻先をハシっと睨みつけていた。
しかし、それからの週末は、銀行の上司やら先輩やらが入れ替わり立ち替わり、娘のドライブに同乗してくれるようになった。先を争って乗りたがってる節さえある。不思議に思った娘が、
「どうしてお休みを返上してまで、私の練習につきあってくれるんですか」と、メールでたずねたところ、
「う~ん、乗りたい気持ち半分、死にたくない気持ち半分…?」
という返事が返ってきた。つまり、怖いもの見たさといったところだろうか。
そんな娘も、奮発して搭載した高性能のナビのおかげか、高速には乗れないものの、どうやら街中を走ることには次第に慣れてきたようである。
ある週末、横浜から東京に住んでいる私の両親の家まで、私と娘たちは車で出かけることになった。両親がひ孫に会いたがっていた為である。後部座席には長女とその息子、助手席には私が乗り込む。しっかりシートベルトも締めた。ここが肝心である。可愛い甥っ子を後部座席に乗せて、運転する次女もいつになく緊張している。車のオーディオからは、ピンと張り詰めた車内の空気にはそぐわない、のんびりとした雅楽が流れてきていた。
「……雅楽? なんで?」
軽快なヒップホップを好む長女が、怪訝そうにたずねた。
「なんでって、流れてくるものを素直に聴いてるしかないよね?」
次女に代わって私が答える。
「だから、なんで?」
「……だって、操作わかんないもん」
次女も「そうだ」と言うように、うなずいている。
これまでの経験からして、小雨が降ってきたからワイパーを動かそうとしたら、洗剤が噴射して前が見えなくなったり、ガソリンスタンドで給油しようとレバーを引いたら、トランクがパカンと開いたり、彼女が新しいことをしようとすると、まずろくなことがない。まして走行中になんて、考えるだけでそら恐ろしい。
帰りには、長女を戸塚にある彼女の自宅まで、そのまま車で送っていくことになった。戸塚までは初めてのコースである。しかも、日はどっぷりと暮れている。こうなったら、ナビを信じて進むしかない。ドライブは、しばらくは順調だったが、突如、運転していた次女が叫び出した。
「ひえっー! 知らないうちに高速乗っちゃったあ!」
(知らないうちにって、……んなバカな! 高速には入口やら、料金所やらがあるでしょうが!)とは思うものの、周りの車は皆、明らかに80キロ以上の速度で走っている。中には、第一車線から第三車線まで、一気に車線変更して、目の前を走り抜ける車さえ……。
(ひょえ~!)と、叫び出したいのはやまやまだが、ここは運転する次女を動揺させてはいけないので、平静を気取る。後部座席に座っている長女も、何故か無言である。チャイルドシートを見て、(よかった! ぐっすり寝てる)胸をなでおろす。しかし、私たち三人の心の内なる悲鳴が何かを発散し、その見えない何かが車内に充満していったに違いない。フロントだけにとどまらず、車の中のガラスというガラスが、みるみるうちに真っ白に曇っていく。(高速だから窓は開けられないし、えーっと、ヒーターのスイッチは? いや曇り止めのスイッチがどこかに、あるはず……)だけど、こんなスピードで走っているときに、洗剤が噴射されたらと思うと、勝手知らないボタンを押す勇気は私にはない。
そこで意を決した私は、おもむろにバッグからハンカチを取りだすと、身を乗り出してフロントガラスを拭き始めた。
ようやく一般道路に入ったが、ほっと一息つく間もなく、再び新たなる不安に襲われた。真っ暗な中、道は細く長く、九十九折りのごとく、くねくねと曲がりくねっている。しかも、それだけではない。どれだけ走っても、対向車はおろか後続車さえも一台として出会わないのである。ふと、表示を見ると、片側は戸塚カントリークラブとなっている。じゃあ、もう片側はと、ナビを覗き込むと、な、なんと「戸塚霊園」とある。どうりで、週末のこんな遅い時間に、車数が少ないわけである。車の中には、もう誰も声を出す者はいない。ただ、窓ガラスだけが、たちまち、また真っ白に曇っていった。
高速ではないんだから、窓を開ければすむことだが、排気ガスの代わりに、今度は何か別のものが車内に侵入してくるような気がして、結局、私はハンカチを取り出すと、再び窓を拭き始めた。
長女を無事送り届けたあと、高速道路だと思っていたのが、走行車のマナーが悪いことで有名な保土ヶ谷バイパスだったということが判明した。ナビを頼りすぎてはいけないという教訓である。どこに連れていかれるか全くわかったものではない。
あれから経験も積んで、次女の運転も堂にいってきた。これからの週末は、彼女に助手席に乗ってもらい、どれ、十年ぶりに車の運転を再開してみようか、と考えている私である。