「スポーツの聖地」としてのイギリス
世界史上、「帝国」と呼ばれるものは、いずれも結果として何かを広く伝播させる役割を担ってきた。例えばローマ帝国は暦とキリスト教を、漢帝国は製紙技術を、サラセン帝国はイスラム教と化学を、ナポレオン帝国はナショナリズムと国民軍を、といった具合である。
大英帝国が伝播させた最大なものは言うまでもなく「英語」と「鉄道」だろう。しかし、私はもう一つ「スポーツ」挙げたい。
伝統と人気のあるスポーツには選手やファンの憧れの場所としての「聖地」が生まれる。イギリスにはスポーツの聖地がいくつかある。
例えば、ウィンブルドンはテニス・ファンの聖地である。ウィンブルドンのセンター・コートでどれほどの名勝負が繰り広げられ、伝説が作られたことか。
テニスはもともとフランスの修道院で行われていた「ジュ・ド・ボーム」から始まったものといわれている。屋内球戯場で一つのボールをネット越しにあるいは壁に打ちあうものだった。当初、フランスやイギリスの王侯、貴族の間で楽しまれたが、イギリスでは一般に普及し、人気のあるスポーツになった。
(歴史あるウィンブルドン・テニス選手権の第一回大会は1877年7月に開催された。)
イギリス人ほど競馬の好きな国民はいないといわれている。大英帝国時代、植民地の町には必ずといっていいほど競馬場を作った。日本は植民地ではないが、イギリス人の多かった横浜外人居留地の最初のプロジェクトの一つが根岸競馬場建設だったことはうなずける。
イギリス王室自身、代々の競馬好きである。チャールズ二世などは自ら騎乗し、優勝もしている。
中でも、最高の競馬は「ロイヤル・アスコット競馬」だ。今でもエリザベス女王をはじめとした王室一族が四頭立ての四輪馬車に乗って入場する。それを迎えるのは着飾った紳士・淑女の観衆である。王室の一族とともに観戦するロイヤル・アスコット競馬は華やかなファッションで彩られ、貴族令嬢の社交界デビューの場ともなる。映画「マイ・フェア・レディ」にアスコット競馬のシーンがでてくるが、オードリー・ヘップバーンの素敵な衣装が印象に残っている向きも多いに違いない。
(「ロイヤル・アスコット」は1711年にアン女王が女王盾を争うレースを開いたことから始まったといわれている。)
ボートマンならだれでも一度はテームズ川上流のヘンリー・オン・テームズで漕ぎたいという夢を持っているといわれる。ボート発祥の地イギリスで行われるボート大会で、世界の一流選手が競い合うヘンリー・ロイヤル・レガッタはこのヘンリー・オン・テームズで行われる。ここで漕げることは名誉である。ザ・ボート・レースといわれるオックスフォード大対ケンブリッジ大の対抗戦も最初はここで行われた。(ヘンリー・レガッタにロイヤルの名前が加わったのは1851年にアルバート王子がパトロンになってからである。)
5月から7月の「ザ・シーズン」と呼ばれる貴族の社交シーズンには、貴族たちは領地の大邸宅を離れ、ロンドンに赴く。王室、貴族主催のパーティや舞踏会への出席だけでなく、ウィンブルドン・テニス選手権、ロイヤル・アスコット競馬、ロイヤル・ヘンリー・レガッタの三大スポーツイベント観戦は、彼らの欠かせぬ社交プログラムになっている。
多くのゴルファーにとってセント・アンドルーズが憧れの場所である。自然のたたずまいがそのまま生かされた、神様が作られたコースといわれている。「ジ・オープン」いわゆる全英オープンゴルフ選手権もしばしばセント・アンドルーズで開かれる。(セント・アンドルーズの歴史はハミルトン大司教がゴルフ・プレーの許可を与えた1552年にさかのぼることができる。)
フットボールは、中世イングランドで行われたマス・フットボールが始まりといわれている。村と村が一つのボールを蹴り合って、何キロも離れたゴールに持っていくゲームだった。死傷者も発生し、ヘンリー八世やエリザベス一世はフットボール禁止令を出すほどだった。このフットボールからサッカーとラグビーが生まれる。
ラグビーが誕生したきっかけは1823年ラグビー校のウィリアム・ウェッブ・エリスがボールを持ってゴール目がけて走りだしたことだとされている。同校の校友会誌「流星」にはそう書かれているのだ。エリス少年が本当にボールを抱えて走った最初の人かは判らないが、彼の伝説は定着し、ラグビー校の塀にはエリス少年を称える石碑が埋めこまれている。ワールド・カップのトロフィーもウエッブ・エリス・トロフィーと名づけられている。ラグビー校に詣でる日本人ラグビーファンは今でも少なくないといわれている。
攘夷浪士の標的になるかも知れないことを承知の上で、富士山に登るのはやはりイギリス人である。公使オールコックは1860年7月、警護の武士や人夫百名を従え、富士山に登頂した。これが第一次東禅寺事件を引き起こした。水戸浪士は「毛唐が神の山を穢した」と東禅寺のイギリス公使館に突入した。
エベレスト登頂をめざしたイギリス人登山家ジョージ・マロリーは「何故山に登るのか?」の問いに「そこに山があるから」と答えたのはあまりにも有名な話である。近代登山はイギリスから始まったといわれるが、実はイギリスには高い山はない。精々千メートルクラスである。残念だが、登山の聖地はイギリスではなく、スイス・アルプスにある。アルプスの大半の主峰はイギリス人登山家により征服された。
陸上競技はオックスフォード大学クライストチャーチから始まったとする学説が有力だ。ここはイギリス首相をもっとも多く輩出するオックスフォード大学最大の学寮であり、映画ハリーポッターのロケに使われ、「不思議な国のアリス」を書いたチャールズ・ドジソンが数学の教鞭をとったところとして有名だ。しかし、陸上競技発祥の地というのは学者の間の話で、一般には知られていないのは残念だ。
聖地の背景には、十九世紀、パブリック・スクールから始まった「スポーツ熱」がある。スポーツはパブリック・スクールから大学へ、やがては地域社会へとイギリス全土に広がった。学校のスポーツ・クラブだけでなく、民間にもクリケット、陸上競技、ボート、フットボール、体操などのクラブが数多く設立された。誰もが容易にスポーツに親しめた。
大英帝国時代、海外に雄飛したイギリスの宣教師、教師、軍人、外交官、実業家、技師は、行く先々の場所に故国のスポーツを持ち込んだ。スポーツはイギリス最大の無形の輸出品といわれるゆえんでもある。
「倫敦から来たスポーツの伝道師」のF.W.ストレンジも、当時の時代を代表する典型的な英国青年で、パブリック・スクールや民間の漕艇クラブで鍛えられ、来日した。ボート、クリケット、陸上競技に長じ、サッカー、水泳、ヨットやスケートもこなせるオールラウンドのスポーツ選手である彼が日本にスポーツを教えることになったのは自然の成り行きといえる。
主要参考文献:
パックス・ブリタニカ | ジャン・モリス著 椋田直子訳 講談社 | 2006年10月 |
世界の歴史と文化 イギリス | 監修者小池滋 新潮社 | 2004年1月 |
イギリス・スポーツ紀行 | 山田和子 千早書房 | 2002年10月 |
スポーツの国イギリス | 鈴木秀人ほか 創文企画 | 2002年3月 |
近代陸上競技の歴史 | R.ケルチェターニ著 日本陸上競技連盟監修 ベースボール・マガジン社 |
1992年2月 |