ふるさと長崎の市電に乗って
小学校のクラス会があり、長崎市を訪れた。原爆により壊滅した浦上地区と甚大な被災を免れた旧市街の境に宿を取った。そのホテルの前から旧市街に向かう路面電車に乗る。一旦発車した電車が急に止まり、前扉が開く。今降りた若い女性が車中に忘れ物をしたようだ。慌てて乗って来て、また降りて行く。
JR長崎駅の長いホームに沿ってチンチン電車はゆっくり走る。中学時代に父の転勤にともない長崎駅を発った時のことを思い出す。
送りに来た級友がホームを走りながら、いつまでも手を振っていた。
電車は黒壁の文明堂本店の前に出る。ここは大波止、長崎港第一の埠頭である。父は対岸の造船所にこの埠頭から連絡船で通っていた。私も夏休みには沖の小島で催される水練学校に船で毎日通いつめた。
当時の浮き桟橋は現代風のターミナルビルに変わっているが、背後の稲佐山の姿は昔のままである。
電車は出島へと進む。明治時代に出島の周囲は埋め立てられ、オランダ人居住地も壊された。子供の頃の私には出島が何処だったのかも分らなかった。今では往時の建物が立派に復元され、車窓からも眺められる。
反対側に目をやると、ビルの間から丘の上に建つ赤い屋根に白い壁の活水女学院が覗く。以前はこの洒落た建物は市内の至る処から見えた。其処に通う女学生には憧れたものである。
観光地となったグラバー邸や思案橋は後まわしとして、まず幼少期を過ごした方面へ電車を乗り継いで行く。シャッター街もなく、繁華街は活気に溢れ、華やいでいる。乗客たちの長崎弁もなぜか私の気持ちを昂らせる。
おくんち祭りで名高い諏訪神社の前の広場まで来る。長崎市民の氏神様で、お諏訪さんの愛称で親しまれている。大鳥居の先に長い石段が真直ぐに伸びている。車内から心のなかで神社に向い遥拝する。
長崎の旧市街は民家が頂上近くまで建ち並ぶ幾つもの丘に囲まれている。それらの奥に聳える彦山が眼前に迫る。
赴任してきた江戸の文人 太田蜀山人はお諏訪さんの境内で長崎弁の狂歌を詠んでいる。
「彦山の 上から出る 月はよか こげん月は えっとなかばい」
私はこの山に見守られながら育った。父親のような存在であった彦山はターザン遊びの格好の基地でもあった。
電車はついに我が家のあった新大工町に到着。自宅跡には大きなビルが建ち、昔の面影は全くないが、私の頭の中では昭和二十年八月九日昼過ぎの惨状が蘇える。
黒い灰が降ってくるなか、この電車道を肌も焼け爛れ、切れ切れになった衣服をまとった被爆者が幽霊のような足取りでつぎつぎと避難して来る。
突然、頭のなかの光景はその六年後の夏に切り替わる。
水練学校に通う私は自宅から大波止の埠頭まで、往復四キロの行程を毎日歩いていた。ある真夏の午後、泳ぎ疲れ、無性に電車に乗りたくなったが、電車賃を持っていない。連れの友達と二人で無賃乗車を試みる。電車が自宅前の停車場に着き、つぎに動き出す瞬間を狙い後扉から飛び降りた。ところが足を取られ、立ち上がり逃げ始めたが追い駆けてきた車掌に二人とも捕まってしまった。
そのとき同じ電車にたまたま乗り合わせていた顔見知りの兄の友人Mさんが降りてきて我々の運賃を払ってくれ、無罪放免となった。もちろん親にはずっと内緒にした。したがって返金もしていない。後にMさんは長崎のJ銀行の頭取になられたと兄から聞いたが、それ以来お目に掛っていない。六十年分の利子をつけてぜひお返ししておこう。
電車は彦山の麓にある終着駅、蛍茶屋に着いた。旧長崎街道の起点である。江戸時代、長崎へ留学に来た多くの先人や志士たちは此処から帰郷して行った。彼らに思いを馳せる。
長崎出身の文芸評論家、山本健吉は詩文に綴る。
「私が町を憶えている以上に、町は私を憶えていてくれた。それが故郷というものか」
車窓からの故郷との再会はわずか三十分足らずであったが、この詩文はまさに電車を乗り終えたときの私の心境を語っている。