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エッセイ・コラム

脱走

西田 昭良

 葛飾臨海水族園のペンギン一羽が柵を越えて脱走した。数日後、近くの海辺で泳いでいるところを捕まった。
 柵内に戻されると、水を得た魚のように喜び勇んでプールに飛び込んだ。
 それはそうだろう。水族園に居さえすれば天敵はいないし、食べ物にも不自由はしない。それに何よりも、家族や仲のよい友だちがいっぱい居る。
 ペンギンが飛び込んだ歓喜の水しぶきで、テレビや新聞を観ていた人の顔もビショ濡れになっただろう。その後ペンギンは〝さざなみ〟と名付けられて、水族園の人気者になっているという。
 そもそも脱走とは、窮地、逆境から脱して走り、楽園に向かうことだ。
 だとすれば、今回のペンギン君はその逆を行ってしまったことになる。餌は何とかあるにしても、自然界には危険がいっぱいだ。当初マスコミが呼称した〝脱走ペンギン〟とは当を得ていない。
 それにひきかえ、小学五年生のTの場合は違っていた。
 もし当時の新聞が取り上げたとすれば、こう見出しを付けただろう。
「疎開児童、脱走す――しかれども東京は遠し――」
 もう半世紀以上も前、戦時中の話である。
 アメリカの東京空襲を逃れて、Tの通う小学校の児童たちはこぞって地方へ集団疎開をした。その先は、群馬県赤城山麓にある古刹。
 すぐに押し寄せてきた急激な食糧難が原因で、寝起きする寺の本堂に異変が起きた。それはにわかに出現した猿山の世界。
 腕力の強いボスを中心に、同じ地区の仲間が輪をつくる。級長や副級長など頭のいい連中も、彼らの腰巾着になる。
 その他の児童は、ボス猿一家になけなしの食事の半分は召し取られ、抵抗すると、よってたかって殴られ、完全に疎外される。命を生きながらにして半分強奪されたに等しい。今世のいじめ問題よりはるかに深刻だ。
 非力で気の弱い児童は泣き寝入りをするしかない。Tはもうこれ以上のいじめに耐えきれず、ついに地獄から脱走を試みたのだった。
 しかし、いとも簡単に失敗に終わった。
 原因は誰の目にも明らかだ。それは寺の地理的条件にある。
 山麓を背にして寺の南面に立ちはだかる渡良瀬川。どうしてもその川を渡らねば、楽園へのとっつきである両毛線桐生駅にも手が届かない。しかし、川幅と急流が泳ぎ渡るのを頑なに拒んでいる。頼るは川をまたぐ桐生大橋だけだ。寺の背後は、波頭のように連なる赤城山脈が脱走の夢さえ無情に遮断している。
 朝の点呼の時に判明したTの脱走。その報告を受けても先生は悠然と構えている。何故なら、桐生駅には、もし痩せこけた東京の疎開っ子が周辺をうろついていたら捕えて欲しい、と以前から頼んであるからだ。起床から点呼の混雑にまぎれて脱走したとしても、Tはまだ橋の袂にも着いてはいまい。
 朝食が終わると、先生を隊長とした捜索隊が編成された。桐生駅に着くと、案の定Tは駅長室でポツンと座っていた。
 捜索隊にぐるりと囲まれながらの帰途。焼けた陽は頭上に登り、うだるような暑さ。汗と涙が混じり合って顔を流れ続けた。
 寺に連れ戻されるとTは、先生から囚人のように足蹴にされながら本堂の片隅に追いやられた。以来Tは、イジメと飢餓の上に更に〝国賊〟という大きなレッテルが貼られたまま、終戦までの生活を送ることになる。
 ああ脱走なんてしなければよかった、としきりに悔んだが、〝あとの祭り〟。我慢ができたのは、やがてこの戦争も日本の勝利に終わって、我が家に帰れる日がやって来るに違いない、という唯一の希望が消えなかったお陰である。
 昭和二十年八月十五日の正午から、Tはすべての枷(かせ)から解放された。玉音は救いの神だった。
 以来Tは、苦難に遭った時は、いつも当時のことを想い出す。あの時の地獄に比べれば、こんなのは大した事じゃない、と。

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