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エッセイ・コラム

西田 昭良

 旅に出る、長い旅に。やがて到達するであろう旅の果てが、どのような景色なのか全く予想もつかない旅。
 道中、鬼が出るか蛇が出るか。一秒先は闇の中の更なる闇。戦々恐々と興味津々が表になったり裏になったりしながら、転がって来る。それは人生の縮図であり、人智を超えた神意の世界でもある。囲碁の旅。
 単なる時間と空間を通過する旅ではない。思考と感情が瞬時に色を変えて、縄のように糾う無限の旅である。
 この辺りの機微について、中国の囲碁古典である『官子譜(かんずふ)序』のサワリにご登場を願おう。
「誹謗されてもじっとこれを受けとめ、自力で解決するのは、碁で死んだ石が生き返るようなものであり、又、生命の危険にさらされたからといって感情を乱したり消沈することがないのは、碁において至静なる判断力をもってこれを至動なる探究心として用い、微妙なる兆しの時に理を極め、碁の活用を混沌たる不測の中に玄妙の手段を見出すに至る・・・(以下略)」。
 この碁の精神こそ、諸葛孔明をして「治乱興亡、思ほえば、世は一局の棊なり」と言わしめた所以でもある。
 そう云われてみれば、囲碁の深奥は成るほど宇宙のように深い、と理解は出来、だからこの上もなく面白いのだが、その真髄を実戦に生かすことはなかなか難しい。
 邪念に侵されたり、痺れを切らして早く終わりたい、早く楽になりたい、と先を急げば急ぐほど、惨めな結果が待っている旅。囲碁とは、透明で寛闊(ひろやか)な心を保ち、我慢に我慢を重ねなければならない旅である。
 誰が云ったか、「碁で子供は大人になり、碁で大人は〝紳士〟になる」という名言を胸に、今日も街の碁会所に向かうのだが、私にはいつもきまって〝瀕死〟が待っている。

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