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エッセイ・コラム

西田 昭良

 満州で終戦を迎え、そのままシベリアに抑留された知人のMさん。当時の若きM上等兵を知る由もないが、小柄で痩身な体躯で、よくも酷寒と重労働の四年間を耐え抜いてこられたものだ、と感心せずにはいられない。
 地区の「シベリア抑留を語る会」のお世話をしているうちにMさんと親しくなった。既に喜寿は過ぎておられた。会以外でも、時には食事を共にしたり、一献を交わしたりするのだが、いつも抑留談義に花が咲く。何回聞いても話題は尽きないし、私の興味も尽きない。その中で、特に印象に残ったのが〝紙〟の話だった。
「零下四〇度の寒さや重労働は、まだ若かったせいか、何とか我慢はできたけど、新聞や雑誌はおろか、紙のカの字も収容所に無かったことには、何としても耐えられず、人間の生活とは思えなかった」
 とMさん。
 トイレは竹の箆(へら)で間に合わせことはできたが、戦場でも欠かしたことのなかった日記や俳句を綴る術がない。記憶だけが紙だと思って脳裏に刻み込むのだが、それには限界があった。日本に帰還した最初の夜は、豊富に紙を手にした喜びのあまり、懐一杯に詰め込んで寝た、とMさんは涙をこぼさんばかりに述懐する。
 以来Mさんは、破棄されそうな紙で、少しでも字が書けそうなものは大切に保存し、メモやノートに転用しているそうだ。新聞の折り込み広告などで裏面の白いものを集め、それで作った句集を見せてもらったことがある。
 昨今、資源ゴミの再利用が常識となっている。それより六十年以上も前から実施していたMさんは、さしずめ〝エコ〟の草分けであったろう。それも巷間で鸚鵡のように言い返えされる〝エコ〟などとは比較にならないほど、紙に対する深い愛情に裏打ちされた心。最近、そのMさんが他界されたと聞く。
 昭和の初め、日露戦争に勝利した日本が、驕慢と盲目のあまり、国を挙げて暴走したその後の歴史のなかで、シベリア抑留は最たる辛酸のツケの一つだろう。その生き証人の数は、国中廻っても、もう僅かに違いない。
 生前、Mさんが口癖のように言っていたように、文字、つまり文化と紙は切っても切り離せない間柄。しかしその関係がいま崩壊しようとしている。ご存じ、デジタル通信(iPadなど)てある。文字と紙を生業としている新聞・出版業界は、これからどのように変貌して行くのだろうか。大いに興味あるところだが、それを見定めるほどの余命は、私にはもう無い。いつの日か、Mさんと共に、黄泉の世界から地球を覗き見ることにでもしようか。

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