ヒューマニストの系譜 中江兆民の息子・丑吉
最近、ヒューマニズムとかヒューマニストという言葉をあまり耳にしない。気恥ずかしくて使わなくなったのだろうか。
明治の自由民権運動の理論的支柱であった中江兆民には、一人の息子がいた。丑吉である。6,7年前に友人が教えてくれてその存在を知った。この二人を想うとき、ヒューマニストの血の流れを強く感じる。
父、兆民は、国内の差別問題と開化の遅れている近隣諸国の民に対する蔑視の解消に向けて、孤軍奮闘した。西欧の後を追う帝国主義の高まりには、道義に反すると警鐘を鳴らした。当時の自由民権論者の多くは、国内差別問題には目をつぶり、大陸に対しての動きにむしろ拍車をかける側に廻ってしまった。
また、司馬遼太郎は、ルソーの思想が、中江兆民が持って帰るよりも早く日本に入っていれば、「ひとびと」の思想が、ひとつの勢力として根付いたかもしれないと、引き継がれ育たなかったことを惜しんでいる。やがて日本は、ブレーキとなる思想が無く「昭和の魔法の森」に迷い込んでしまった。
息子、丑吉は、兆民が亡くなった1901年には12才であった。その後帝国大学を卒業、縁あって中国へ渡り、終生北京にあって学究生活を過ごし、1942年53才で亡くなっている。
丑吉は、学究生活の前半を古代中国の政治と思想、後半はカント、ヘーゲル、マルクスを読み込むことに費やしている。しかし、著作は学会その他に発表することなく、「自覚した大衆」の一人としての生活に徹したとか。勉学の前に、毎朝、英・仏・独・漢・邦の新聞を精読して世の人々の動きを観察するという生活を三十年続けた。そういった生活の積み重ねが、過去の歴史を理解する鍵となり、現実政治に対する洞察力となったという。
1931年、満州事変が勃発するや、「このできごとは、日本が大火災のなかで焼き尽くされるであろう来るべき世界戦争の序曲である」と語った。1937年には、「日中戦争は、必然的に英米と対決し、そして機関車めがけてぶつかっていく狸のように粉砕されるだろう」と予告した。大東亜戦争勃発前、1941年の夏には、「世界史は『ヒューマニティー』の方向に沿ってのみ進展する。…この世界戦争の究極の勝利は必ずデモクラシィ国家のものだ。ナチス・ドイツは必ず倒れる…」「日本も近く大戦争を惹起し、そして結局は満州はおろか、台湾、朝鮮までもモギとられる日が必ずくる。日本は有史以来の艱難の底に沈むであろう」
中江丑吉は、その翌年8月3日に亡くなった。4カ月後の12月8日、丑吉の予知した通り、日本は大東亜戦争に突入したのであった。
日本の来るべき姿を、これほど鋭く的確にした予想を他に知らない。それも北京の家に籠る生活を送りながらである。
丑吉の洞察力のよってきたる源は、「『ヒューマニティー』を担っているもののみが世界史の真のトレーガーたりうる。これが世界史の進展の法則だ」という視点であったと思う。
いまや、投票日まで三週間足らず、選挙運動の真最中である。兆民・丑吉の『ヒューマニティー』の視点を持つ政治家がどこかにいることを願って止まない。
(平成24年11月27日)