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エッセイ・コラム

原子力と私の関わり(原発史展望)1/2

池田 隆

 企業OBペンクラブの平成24年11月度月例会で「原子力と私の関わり」と題し、約一時間の会員講演を行った。以下はその講演録(オーラルペーパー)である。なお講演会で参考資料として配布した原子力年表については改めて別の機会で公にしたい。

 昨年の5月に入会しました池田でございます。
 今、九州場所が開かれていますが、TVには観客の一人として和服姿の同じご婦人が力士の背後に毎日映ります。実は昨年の暮れ、その女性の素性を想像して、「博多の女」と題し800字文学館に書きました。今場所も彼女は毎日何度となくTV画面に現れています。
 その女性に気づかれ、関心を抱かれた方がここにも何人かおられるようですが、ただ、そのような方面の話になると、私は経験不足で話のネタが足りず、一時間も持ちそうにありません。それで今回は原子力に関する固い話題に致します。眠くなったら遠慮なくお休みください。
 この会で私は主に「何でも書こう会」と「フォト句」に出ております。800字文学館やエッセイコラムでは30数編のエッセイをすでに書きました。その半数近くが何等かの意味で原子力に関連する事柄を題材としていますが、いずれも断片的な内容です。それで今回はその背景というか、風景というか、原子力一般の歴史的経緯を私自身の経験もまじえて、お話したいと思います。
 私は一般の方より何かにつけ原子力と深い関りのある人生を送ってきました。
 その経過を掻い摘んで話しますと、まず幼少期に長崎で被爆し、長じては原子力の平和利用を夢見て、原子力タービンの設計開発に35年間にわたり傾注しました。その働き盛りの後半では原発関係のトラブルに悩まされ、科学技術の限界や技術倫理を強く意識するようになりました。企業定年後はしばらく大学で原子力の代替発電技術の研究も行いました。
 最近では一昨年に国の原子力政策を策定する原子力委員会に自分の経験に照らし脱原発へ舵を切り直すべきとの提言書を出してみました。その提言は政府の広報には記載されましたが、もちろんそれ以上の反応はありません。
 そうこうしている時に3.11の福島原発事故が発生しました。
 その直後は原子力に関係した昔の職場仲間などとメールで頻繁に情報交換をしていました。事故の様相が分るにつれ、もし他の原発で引き続いて同様の事故が発生すると、我が国の事故対応能力を完全に超えることは明らかです。そこで他の原発を即停止するように、3月末に菅首相へメールを出しました。彼が読んでくれたか否かは分りませんが、しばらく間をおいて浜岡原発停止の首相要請が出ました。
 また世間のマスコミでは雨後の竹の子のように原子力に関する情報がつぎつぎに出てきます。
 その中でも私がとくに関心を抱いたのは、技術的な原因や問題より原子力を取り巻く社会的、政治的な経緯、背景でした。私自身がどのような時代背景のもとでこれまで自分のスタンスや考えを決めてきたか、改めて人生の最終章においてふり返ってみたかったのです。
 また私が取り組んだタービンという機械は原発用だけでなく、火力発電用や地熱発電用にも用いられます。したがって私自身はいわゆる原子力村の中枢にいた訳ではなく、村の境界を出たり入ったりしておりました。ただ入った時にはしばしば原子力タービンの実質的な最終技術責任者の役目に就きました。
 そのような事情で四六時中、原子力村にどっぷり浸かっていた連中よりはいささか第三者的な客観的な目で、拘りなく事象を眺めることができるかと思います。
 技術面以外の原子力関係の事柄については、不合理なこと、時には社会倫理に反するような要請や指示を村の中枢から受けることもありました。そのような理不尽さの背景を当時は推測するしかなかったのですが、3.11以降の原子力情報のラッシュで随分とクリアになってきました。「ああ、やはりそうだったのか」と思うことも度々です。
 ただ、今度は情報が多すぎて事象と記憶が混乱してきます。そこで3.11を受けて再度自分の考えや経験を客観的にしたく、原子力年表の形で要点だけでも整理しておこうと考えました。それが今皆様にお配りした参考用資料です。
 個人的に関心の高い事象も多分に含まれていますが、原子力に関心を持たれる方、とくに「なぜ、どのように安全神話や原子力村と言われるような伏魔殿が出来上がってきたか」を理解したい方には、あるいはお役にたつのではないかと思っています。
 この原子力年表ではわずか4頁に沢山の情報を詰め込もうとしたので、字が細かくなり恐縮です。ここで赤字は私がとくに重要と考えた事象です。青字は私の個人的な経験と関連の深かった事柄です。摘要の欄では各時代の趨勢を総括しています。
 前置きが長くなりましたが、これから時間の許すかぎり、この年表の赤字の事象を中心に日本での原子力の社会、政治的歴史を追ってみたいと思います。

 (1938~1945)
 1頁目は1938年のウラン核分裂の発見より1945年の原爆投下までの7年間における核兵器開発の経緯を示しています。因みに私自身は1938年生まれですから、その同じ年に核分裂現象が発見されたことに何か奇縁を感じています。
 その翌年にはアインシュタインが米国大統領のルーズベルトに核分裂反応を応用した新型爆弾開発の提案を行っています。それを受けて国防委員会が科学者を集めます。その多くは欧州から米国に亡命してきたユダヤ系科学者で、もしナチスが世界で一番先に核爆弾を開発したら大変だと思っていたようです。
 1941年には地球上に本来存在しない元素、プルトニウムが作り出され、それがウラン以上に核爆弾には向いていることが分ります。
 1942年にはその開発計画は陸軍の組織下に入り、マンハッタン計画と呼ばれ、最高機密、最優先のプロジェクトとなります。同年末にはプルトニウムを製造するために世界初の原子炉が稼働し始めます。
 その翌年には機密保持のためニューメキシコの僻地にロスアラモス研究所を建て、数千人規模の研究者と工兵を集結させ、そのトップにオッペンハイマーを任命します。
 1944年には後に原爆の父と呼ばれるオッペンハイマーやコンピューターの父と呼ばれるノイマンなどの提言を受けて、ルーズベルトとチャーチルの会談で原爆の投下先が日本の未被爆都市に決まります。
 1945年に入り、核爆弾を搭載するB-29の飛行距離の制限からガム島近くのテニアン島がその発進基地と決まります。副大統領だったトルーマンはルーズベルトの急死で大統領になった時にはじめて軍からこの計画の詳細を明かされたと言います。如何に機密に気を使っていたかが分ります。
 1945年7月15日にアラモコード砂漠で初めてプルトニウム爆弾の実機実験が行われ、その成功のニュースは直ちにボツダムで会談中のトルーマンに伝えられます。
 広島、小倉、長崎、新潟の順に投下都市を決め、実物大の模擬爆弾、通称パンプキンを使って日本の各地の都市で投下練習を行います。
 8月6日ぶっつけ本番でウラニウム爆弾を広島に投下した3日後、8月9日に本命のプルトニウム爆弾を長崎に投下します。
 即日、トルーマンは「戦争を早期に終結させるために原爆を使用した」と正当性の声明を発表します。あまりに強烈すぎる爆弾を一般市民に対して二発も使用することに米国の科学者や軍人のなかでも躊躇する意見が出ていた程です。声明は彼が国際世論を非常に気にしていた現れです。
 しかしこれほど急いで使用した本当の理由はソ連の参戦で戦争の終結が間際に迫り、はやく技術的実証試験を実行し、戦後の国際社会を睨んだ米国の軍事的優位性を誇示しておくことにありました。
 とにかくこのマンハッタン計画は史上空前絶後の巨大プロジェクトです。最初の発見から実使用まで正味わずか6年間とは驚異的です。かけた人間の数や費用の点からも、後世への影響の点からも他に類を見ません。
 一方、私は長崎への原爆投下に7歳の時に出くわします。自宅は爆心地より3.6kmの地点に在りました。隣の二階で友達と将棋を指して遊んでいました。突然ピッカーと強い赤紫の閃光が視界をふさぎ、ドーン!という物凄い爆音がします。少し間を置いて強烈な爆風に包まれました。窓ガラスが粉々になって置物などと一緒に飛んできます。慌てて自宅に戻ろうと階段口に駆け寄りますが、下から色々な物を噴き上げてくる爆風で下りられません。
 しばらくしてやっと家に戻りました。幸いなことに私の家族は全員無事でした。しかし将棋相手の友達はその瞬間に父親と姉を職場で亡くしました。やがて自宅前の道路を爆心地により近い所で被爆した人たちがぞろぞろと列をなして避難してきます。服は切れ切れになり、赤く焼け落ちた皮膚や肉にこびり付いています。まるで夢遊病者か幽霊のような足取りです。今思い出すと戦慄を覚えるのですが、その時は顔に当てた手指の間から好奇心一杯で異常な姿の人たちを見続けておりました。

 (1945~1960)
 それでは次に二頁目をお開き下さい。
 敗戦からサンフランシスコ講和条約までのGHQによる日本占領期間ですが、世界では冷戦に入ります。原爆独占による米国の軍事的に優位な期間が、1949年にソ連も原爆開発に成功し、意外と早く終わります。米ソ対立の核兵器開発競争が始まりです。
 この期間、日本では徹底したABCC調査と情報操作で原爆被害の隠蔽と独占が米国によって行われます。日本側の知識人やマスコミも原子力こそ軍事的にも経済的にも次の時代を開くものだとの肯定的論調が主体的になります。米国による日本人の洗脳政策が浸透します。
 湯川秀樹のノーベル賞初受賞で日本中が沸き、手塚治虫が鉄腕アトムの前身であるアトム大使を発表したのもこの頃です。
 私の小学校時代で、未だ一面焼け野原になっている原発被災地に出掛けては、一発の爆弾で凄いなと思うことは有りましたが、無邪気に野球や凧揚げなどをして遊んでおりました。
 次の1952年より1960年頃までを概観すると、世界的な反核運動の高揚を受けて米国の原子力平和利用に関する世界戦略が始まります。それを受けて日本でも種々の試行錯誤を行いながら原子力体制が構築されていきます。その間、日本の政治家がつねに核武装化を念頭においていたことを知らなければ、この後の経緯を理解できません。
 この期間、最初の世界的な大きな出来事はアイゼンハワー大統領の国連での「アトムズ・フォア・ピース」の演説です。それまで最高機密としてきた原子力技術を民間や国際社会に開示していこうというものです。
 その狙いのひとつが世界的な反核運動を和らげることにありましたが、皮肉にもその翌年にビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸が被爆する事件が起き、日本だけでなく世界的な反響を呼びます。
 もう一つの狙いは米国が独占する低濃縮ウランを友好国に一部供与して、米国の核の傘を拡げ、ソ連側の攻勢に対抗することでした。ちなみに1954年にソ連が世界最初の天然ウラン型の原発を動かしています。当時はウラン濃縮や再処理技術は米国が圧倒的に優位でした。
 日本では原子力研究が解禁となり、核物理学者の間で今後どのようにすべきかと論争が始まります。一方、中曽根が米国の諜報機関の紹介でハーバード大学のセミナに招聘され、原子力を啓蒙され、翌年には国会で何の裏付けもなく多額の原子力研究予算を通してしまいます。札束で動きの鈍い科学者を政治家がひっ叩いた感じです。学者は慌てて原子力三原則を憲章として提案します。
 元々国粋主義派で自主武装を主張していた中曽根が敢えて米国の核の傘に入ることに積極的になったのは、政治家としての現実的側面でしょう。
 そのとき第五福竜丸事件が起こり、日本でも原爆禁止署名運動など、反核反米運動が盛り上がります。
 そこで米国は原子力利用促進で政界進出を狙う読売新聞社主の正力松太郎と結託して大々的な原子力平和利用博覧会を日本各地で開催し、大人気を得て日本人の核アレルギーを除去していきます。
 その結果、核兵器に反対していた学者、知識人も含め殆どの日本人が原子力平和利用に希望を抱き、肯定するようになります。
 1955年、米国から濃縮ウランの供与が決まり、日本原子力研究所が受け皿として設立されます。原子力基本法が成立し、翌年には原子力委員会科学技術庁が創設され、その初代の委員長や長官に正力が自ら座ります。原子力開発長期計画も策定します。
 そこでは正力は原発直輸入と民間主導の方針を出しますが、同時に将来の日本の核武装化を念頭に、米国の独占的な濃縮ウラン供与と厳しいプルトニウム管理に反発を覚え、米国に対し揺さぶりを掛けて行きます。
 岸内閣でも閣僚となった正力は科学技術庁所管の原研に米国製の実験炉JPDRの導入を計画させますが、一方で通産省所管の日本原子力発電kkを設立し、英国よりコールダーホール型大型原子炉の導入を決めます。これは濃縮ウランを使わず天然ウランから発電と共にプルトニウムが得られるので潜在的な核武装ができると考えたからでしょう。
 60年の安保条約改定交渉に際し岸首相はこの核カードを使って極端な不平等条約であった51年の安保条約を大幅に改定することに成功します。
 この期間、私は1954年に高校に進学しますが、その時に第五福竜丸事件が起こり、自分も被爆者であることを改めて強く認識しました。世のなかの原子力平和利用開発の風潮に染まり、また少年期に見た原爆の威力を思い出し、自分は原子力平和利用の先頭に立つ科学者か技術者になろうと志を立てました。高校時代には原子物理学の啓蒙書、入門書などに没頭していました。
 そのせいとは言いませんが、2年も浪人して大学に入ります。浪人するようではと科学者は無理だろうと、工学部を選び原子力技術者になろうと決心しました。出来たばかりの東海村を訪ね、研究炉JRR1や建設中のJPDRを見学しては心を弾ませていました。

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