原子力と私の関わり(原発史展望)2/2
(1961~1978)
では3頁目をご覧下さい。1961年から1978年までは世界でも日本でも原子力平和利用が華々しく拡大、開花した躍進時代です。
1960年に米国で沸騰水型軽水炉BWRの初号機が運転を開始しますが、中東の石油ブームのために原発ブームは一時下火になります。しかし63年にGEが大容量原発を受注すると、その建設費の安さから急に原子力ブームが再燃します。原子炉の型式も軽水炉が主体になります。
以後1979年にスリーマイル島での原発事故が起こるまでは、米国を筆頭に日本や西洋諸国およびソ連で原発は驚異的な勢いで増大していきます。
その間にも原発の事故や原子力に対する批判はありましたが、時代の勢いに押されてしまう状況でした。
日本では最初に英国より導入したコールダーホール型原子炉は満足な運転ができず、建設費も大幅に増え失敗に終わります。
日本原電と東電はそれぞれ敦賀と福島にGEからBWR炉を、関電は美浜にWHからPWR炉を輸入することに決めます。さらにGEとは東芝、日立が、WHとは三菱が技術提携を行い、早急にその技術を国産化できるようにしようと通産省と電力会社はエネルギー施策を進めます。
その施策に沿って各地に原発が建設されていきますが、日本では反原発の意識も依然根強く、立地難に陥ります。
それに対し田中内閣は通産省に資源エネルギー庁を創設し、1974年には電源三法を制定し、利益誘導型の立地政策を始めます。かつ原発建設にかかる膨大な諸費用は総括原価方式で電気料金に上乗せして回収するようにします。
政府の原子力予算の大部分は科学技術庁所管の動力炉・核燃料開発事業団(動燃)が行う高速炉(FBR)、重水軽水炉、ウラン鉱開発、ウラン濃縮、核燃料再処理と云った発電を除く核利用サイクル全体の技術開発に向けられることになります。
佐藤内閣による沖縄返還交渉では日本の核武装を放棄し米国の核の傘に入り続け、その代わりに沖縄を返還させますが、その際にもこの核利用サイクル開発の姿勢を示し、利用したと言われます。
それを受けた1972年の田中・ニクソン会談は後のロッキード事件で有名になりますが、主要な会談目的は多量の濃縮ウラン供給を米国に確約させ、日本の原発運転を安定化させることにありました。
この間1975年には日本でも武谷や高木が原子力資料情報室を設立し、原子力の危険性を一般に警告していきますが、反対運動は周囲からも内からも封じ込められていきます。その止めが1978年の伊方原発訴訟の住民敗訴だと言われます。
またオイルショックの経験からサンシャイン計画と称する自然エネルギー利用の国家プロジェクトが大々的に行われ、それなりの良い成果を上げるのですが最後は電力会社の抵抗で実用化にまでは至りませんでした。
この間の私の活動ですが、大学では機械工学科に進み、卒論では「沸騰水型原子炉の水力学的安定性の研究」をテーマとしました。重電メーカーに就職し、原子炉本体よりは早い時期に自主設計が出来そうな原子力タービンの設計開発を行う部門に配属して貰います。
当初はJPDRや福島#2の図面を睨んで、GEの技術を勉強し、東海村に出掛けて原電#1や福島#1の現場を見学していました。また原子力タービンの信頼性と性能に大きな影響をもつ蒸気の流れについて研究し、英国の学会で注目を浴びたこともあります。
結局住民運動で実現することなく幻の設計に終わりますが、芦浜向けの大容量の原子力タービンを自力で設計しました。またGEと最後の技術提携機となった福島#6の技術導入のリーダー役も務めました。柏崎や福島第二、女川などの原子力タービンを設計する頃になると、GE流ではありますが、完全に自主技術で設計できるようになります。
当時、原子力タービンに限ってはコストや性能より安全性が第一であるとの強い信念を持っていた私は、コストダウンのために設計変更を要求してくる電力会社や会社トップに対し実績重視の設計方針を主張し、しばしば反論した記憶があります。
(1979~2012)
最後の4頁目で1979年のスリーマイル島原発事故から2011年の福島原発事故までの32年間を展望します。
世界的に見ると1979年のスリーマイル島原発事故の後は米国での原発の新設は全く無くなります。また1986年のチェルノブイリ原発事故以来仏国以外の欧州諸国でも原発建設は抑制されます。
日本では両事故によって直接原発建設が抑制されることは有りませんでしたが、政府や電力会社の積極的な原発増強策にも拘らず、立地難やバブル崩壊後の電力需要の鈍化で原発建設も鈍くなります。
世界の原発事情は仏国や日本の積極派と独国や他の欧州諸国の抑制派、中間の米英とロシアなどの現状維持派に二極化、あるいは三極化していきます。
さらに21世紀に入ると中国、インドなど中進国が積極派に加わってきます。
豪州、ニュージーランド、南米諸国など南半球諸国は一貫して原発建設を拒否しています。
そのような状況が長く続きましたが、2005年頃より原発ルネッサンスと呼ばれた原発建設復活の兆しが出てきます。その矢先に福島原発事故が発生しました。
技術的な面から眺めると、軽水炉技術で世界を制覇した米国も新設プラントがない状態が20年以上も続き、技術レベルの維持発展は難しくなってきます。それを日本のメーカーが補い、肩代わりしています。一方、仏国は独自に原発技術を伸ばし、トップの地位に立とうとしています。
さてこの30年間の日本の事情を見てみますと、二つの大きな特徴があります。
一つは科学技術庁が所管した核燃料サイクル関連の開発事業がいずれも難航していることです。
1984年に青森県下北半島に核燃料サイクルの3主要設備、すなわちウラン濃縮、核燃料再処理、高レベル放射能性廃棄物処理の建設を始めます。しかし核燃料再処理設備は試運転時のトラブル続きで未だに正常な運転が出来ない状況です。高レベル放射性廃棄物処理に関しては全く見通しも立たない状況です。
核燃料サイクルにとって最重要な高速増殖炉(もんじゅ)が1985年に敦賀で着工しますが、1995年にはナトリウム漏洩事故を起こし、その後も事故つづきで運転に入れない状況です。
もう一つの特徴は原子力推進体制が全体として極めて不健全化したことです。すなわち国会事故調が人災と断定した内容です。
原子力推進という大前提を絶対化して、それに少しでも支障のあることは理不尽なまで徹底的に排除、隠蔽し、データ改竄し、利点のみを喧伝する体質に政財官学、マスコミが染まり、安全神話まで作り上げたことです。
それに対し政府内部でも2000年頃に通産次官を筆頭とした電力自由化や発送電分離などの動きも出ましたが、電力会社と結託した政治家と反対派官僚の力で結局は挫折します。
また1986年のチャレンジャー爆発事故以来、米国で技術倫理が重要視され、内部告発が社会的に認められるようになります。その流れを受けて日本の原子力関連の不祥事が少しずつ明るみになり出しました。その代表例が2002年の東電原子炉損傷事件の発覚です。これによって当時の東電幹部が大幅に辞任しました。
しかし今回の事故対応を見ると当時の体質はあまり変わっていないようです。トラブルも隠し蔽うことが出来ず、公表される件数が増えてきました。それでもその波及を出来るだけ小さくしよとする姿勢は依然と変わりません。欧米と比較して日本の不健在化が異常に進んだ端緒はスリーマイルとチェルノブイリへの事故を受けての対応の違いから始まったといえます。
ところでこの4頁目で示す期間の最初の約10年間は私が原子力タービンなどのトラブルと格闘していた時期です。その中でもとくに心血を注いだトラブルは、福島#3に始まり世界の各メーカー製の全ての原子力タービンの回転円盤に生じた応力腐食による大きな亀裂です。結局このトラブルは公にならず、10年の歳月をかけて技術的に解決しましたが、一歩間違えば発電所を爆発させる危険性を孕んでおりました。
また1992年に女川#1でブルドン菅の水素爆発事故が起こりました。それ自体は小さなトラブルでしたが、水素爆発が原因と公表すると社会的波紋が大きくなるので原因を変更するように原子力村の中枢から強いられました。技術者として嫌な思い出の一つです。2001年には浜岡#1で原子炉系の重要配管が水素爆発で破損しますが、その時はさすがに原因を改竄することは出来ず、公にしていました。このような水素爆発事故の経験が有りながら今回の福島原発事故で建屋の水素爆発を原子力関係者の誰もが予想していなかったことは怠慢としか言いようがありません。
私自身の経験に話を戻しますと、1985年にメキシコに納めた地熱発電所が爆発事故を起こしました。その原因追究を行った顛末については「事実は小説より奇なり」と題してこの会のエッセイコラムにも書きました。地熱タービンは規模こそ原子力タービンに比べて非常に小さいのですが、発電システムや構造は基本的に同じです。事故の切掛けは些細な運転員のミスだったのですが、それが連鎖反応的に拡大して大爆発に至ったのです。同じような事態は原発でも起こらないとは限らないと思い、背筋が寒くなりました。このような経験をいくつも積み重ねているうちに、絶対的な原子力の安全を人間が達成するのは不可能という思いを強くしていった次第です。
以上、年表を辿り原子力の歴史を見てきましたが、いま原発問題を考えるときに特に留意すべき点はつぎの二点になるかと思います。 第一点は原子力平和利用と核兵器は表裏一体の関係があることです。戦後外交の歴史では表向きは非核三原則を謳っていますが、要所要所で日本は潜在的な核武装カードをチラつかせてきました。現在も右寄りの政治家や評論家はその意識が心の奥で拭いきれていないようです。米国の核の傘から将来抜け出て、正真正銘の独立国となるときのためにも、その核カードを残しておきたいのでしょう。 米国としても今や日本の原子力技術による助けが有効で、核の傘で世界の覇権を維持し続けるためにも、ここで日本が一気に脱原発に走るのはあまり嬉しいことではないのでしょう。 一方、9.11や3.11で分ったように敵の格好な攻撃目標となる原発は巨大な火薬倉庫のようなものです。国防上の最大の弱点になることを忘れてはいけません。とくに精密誘導兵器の発達でその弱点は増大していきます。核カードの効果は失われ、却って国防上は逆効果を生むことでしょう。 この核カード問題に比べると脱原発による一時的な経済への影響など、原発維持論者が今述べている反対理由はいずれも根の浅い話です。 第二点は原子力タービンなどのトラブルに深く関わってきた技術者としての経験です。事故の原因は多様で、予測不可能な複合原因や連鎖反応で大事故に発展します。 たとえば今回の経験に照らして地震津波の対策を強化することは同じ原因のトラブル防止には役立ちますが、それ以外にも無数のトラブル原因が存在します。スリーマイル島もチェルノブイリも福島もそれぞれ原因は違っていました。 一度も経験したことない原因のトラブル事象については人間の予知能力は実に低いと謙虚に認めなければなりません。起こった後から考えると何故こんなことに気付かなかったと悔やむのですが、最高レベルの専門家が大勢集まって何度となく事前検討を行っても指の間から水が零れるようにトラブルは起きてしまいます。 また話はいささか難しくなりますが、科学技術は事象の平均的な特性、たとえば性能とか機能については非常に強力な力を発揮しますが、確率的に発生するようなバラツキやユラギのある事象について個々の発生を的確に予測することは非常に苦手です。トラブルはその確率的事象の典型です。しかもトラブルにはしばしば人間の不確かな行動が介在します。将来、科学技術の進歩でトラブルを完全に防止するなどといった過大な期待を掛けてはいけません。確率的に低くても一度大事故が発生すると人類を壊滅させる恐れのある原発、しかも解決の見通しも立たないプルトニウムや放射性廃棄物の処理を考えると、やはり脱原発しかないというのが私の結論です。
最後に、ここは企業OBペンクラブですので、すこし早いかも知れませんが、私の時世の句を披露して終わりにします。
「原発や 浜の真砂は尽きるとも 世にトラブルの 種は尽きまじ」 (池田隆右衛門)
地獄に落ちました折には、石川五右衛門さんに彼の時世の句を本歌取りして、勝手に盗んだとお詫びします。
ご静聴有り難うございました。