ご隠居の小さな恋:
昨春、桜が蕾を開く頃だったろうか、二階の我が家から外階段で降りると、一階のドアが開いて若い西洋人の女性が現われた。顔を控え目にほころばせて、たどたどしく「こんにちわ」という。そのまま別れたが、気になったので連れ合いに聞くと、「暫く前から下でシェアハウスしているみたいよ」という。一階には十年前から、フランス人の事業家B夫妻がテナントで住んでいる。Bに問い合わせて、彼女が筆者の寝室の真下に当たる一部屋をシェアしていることを確認した。
一年のワーキングホリデイヴィザでフランスから来日したイラストレーターの卵で、偶然に町で知り合い、彼が経営するビストロを手伝っているという。
濃いブラウンの髪、コーケシアンにしては肌理の細かい白く柔らかい肌、顔も身体も小づくり。嬉しいと可愛い笑顔がパチッとはじける。なんとも可愛らしい。75歳のご隠居は一目ぼれしてしまった。
さっそくビストロに足を運び、カウンターでワイングラスを傾けながら聴くと、日本の文化が好きで来日した、ジャパンの自然も人間も、そして住みついたシモキタの街も断然気に入っているけど、イラストの仕事はなかなか見つからないという。
店に置いてあった作品集を見ると、パソコンでなく、クレヨンやボールペンで描いている。彼女が大好きというジブリの雰囲気が漂うのもある。大人と子供が混じったような作品集だ。画風が定まっていないともいえる。23歳がそのまま顔を出しているのかもしれない。
筆者の現役最後の仕事は、機内誌の制作だった。関連会社の代表で総編集長も兼ねていたから、エデイターやデザイナーと一緒に汗をかき、イラストレーターとの付き合いもあった。知らない世界ではない。腹の虫がむずむずした。二度、三度会ううちに、すっかり彼女が気に入ってしまったのが真相なのだが、若い才能を伸ばすためになにかしてやりたい。
四つの約束をした。
一つは、筆者の(生れて初めての)ポートレイトを描いてもらうこと、
二つ目は、大人っぽい一枚のイラストを、筆者が製本していずれは出版を夢見ている、『ミッドナイト・イン・トウキョウ』と題する怪しげな掌編小説集の表紙に使わせて貰うこと、
三つ目は、筆者が制作を手伝っている市販誌に彼女とそのイラストを何らかの形で載せること、
最後は、大手出版社のイラストレーション・コンテストの紹介。
打ち合わせは筆者の狭い書斎でやる。長いときは小一時間籠もり、わかれるときは濃淡のハグをかわすから、連れ合いの疑惑の目が光る。
とにかく四つの約束が果たされたのは、師走の末だ。クリスマスの贈り物とお年玉を兼ねた隠居からのお礼は、完成した小説本と掲載誌、彼女の名前を横文字とカタカナで刻んだ漆塗りのお箸など。達成感があってご隠居もご機嫌だが、彼女も日本でのイラストレーターの初仕事とあって大喜び。ご隠居もお礼に暖かいなにかを頂戴した。
ベッドの真下の部屋で寝起きする彼女の音に、真夜中目を醒まされたり、彼女との出会いを素材に二篇の掌編小説も書き上げた。主人公の名はオードリー。いろいろなハプニングがあった小一年も、彼女のヴィザの期限切れで間もなくジ・エンドとなる。ご隠居の淡い恋に幕が下りるのだ。年を置いて、また来日したいという。それまでもつか……。「夢をもったまま死んでいくのが夢」といった人生の達人もいる。ご隠居もそれに倣うか、と呟いている。