こどもの理科離れから
小中学生の理科離れが進んでおり、技術立国を目指す日本の将来に影を落とすゆゆしい問題と騒がれて久しい。
だが調べてみると、「理科離れ」が盛んにマスコミに取り上げられたのは7、8年前のことで、今はこれに関連する記事は大きく減っている。この問題を考慮した新しい学習指導要領が実施されたばかりなのに、メディアの扱いは収束に向かっているようだ。マスコミの関心はすでにいじめや体罰などのホットなテーマに移ったのだろう。
といってマスコミの移り気をなじる積りはさらさらない。むしろ騒がれているときは言い出しにくかった素朴な疑問を呈するのに好都合と歓迎している。
実をいうと、私はこどもの理科離れが問題といわれても、何が問題なのかよく分らない。同じ傾向でも、大学受験生の理系離れ、ことに工学部離れなら年々志望者が減るグラフを見れば明らかだ。が、“義務”教育の間は生徒がどう思おうと指導要領で決められた理科の時間がチャンとある。
授業時間はあっても理科嫌いになって勉強しないのが問題なのか。確かに生徒が理科に興味をもってくれることは望ましい。そのためにボランタリーで実験指導をしている知人の話を聞くと、同じ理系の学部出身者として頭が下がる。
ただ、理科にかぎらず概して学校の勉強は昔から面白いものではない。私の場合、自然の驚異や機械の仕組みに興味があっても、小学校の理科の時間で憶えているのは実物大の骸骨の模型くらい。国語も教科書に載った名作はほとんど記憶になく、少年雑誌の発売日を待ちかねて探偵小説や冒険物語を読んだ思い出が懐かしい。
それでも、私たちは学校には当然のこととして毎日通い、それなりに勉強した。小(中)学生の頃は、体育や音楽を除いて成績の良い子は教科に関係なくよくできる。そして真面目に勉強する女の子の方が成績優秀な子が多かった。
当時は、学習塾に通うこどもはほとんどいなく、家でも勉強は宿題をするくらい。後は日が暮れるまで夢中になって友だちと遊んでいた。
今はそんな昔とレベルが全く違うといわれればそれまでだが、義務教育の段階は科目別の好き嫌いや得手不得手をそれほど気にしなくていいと私は思う。ただ、先生方がこどもの好奇心をまともに受け止め、親がよけいな干渉をして彼らの興味を削がないようにすれば。
自分の適性とか、それを考慮した進路の選択とかを真剣に考えるのは、個人差があるとしても自我に目覚める高校時代であろう。そのころになると各教科の内容も深まり、意外に自分は理数系に向いているとか、文科系が面白いとかいう傾向も分ってくる。そこで自分の得手と一層伸ばすように、自ら学校の授業のワンランク上の内容に挑戦するようになれば理想的である。自分が真にやりたいのは何なのか、分からなければ、幅広く勉強しながらとことん悩めばいい。
余談だが、NHKの朝ドラの「梅ちゃん先生」は、ギリギリまで進路が決まらず悩んだ末、医師の父親の一面を見て医者を志し、女子医専の入試に挑戦する。それまで勉強嫌いで基礎学力の弱かった彼女は苦労するが、頑張り通して所期の目的を果たした。ドラマとはいえ、目標が定まった後の彼女の顔は引き締まっていた。
「理科離れ」が問題にされた時期と「ゆとり教育」批判が盛んになった時期はほぼ一致していて、理科離れの元凶はゆとり教育と指摘する声が大きい。
そこで「ゆとり教育」の始まりといわれている2002年の学習指導要領を読んでみると、思いの外いいことが書かれている。そのまま大人の生涯教育の理念にしてもよさそうだ。
それまの詰め込み主義で考える余裕を失くした教育を改め、基礎・基本を確実に身に付けさせて自ら学び自ら考える力などの「生きる力」の育成を実現する、と高らかに謳っている。そしてこの理念を実現するために学校週5日制を完全実施し、授業時間を減らした。
一見非の打ちどころのない立派な方針だが、まず先生、そして生徒の意識改革が伴わないと絵に描いた餅になることは容易にわかる。優秀な教師と生徒を集めたエリート校なら生徒が自主的に学習することもできよう。だが、自ら学び、考える習慣がない一般校では、ゆとりができれば楽をするだけで実効は上がらない。ことにまだ考えが幼稚な低学年では、先生がよほどうまく導かない限り立派なお題目をあげても無理な相談だ。
その結果は歴然で、国際学力調査の成績は読解力も数学や理科の能力も急降下する。そこでゆとり教育の見直しが求められ、2011年に脱ゆとり教育の実施となった。教育行政のめまぐるしく変わる潮流に翻弄されたこどもたちが気の毒だ。低学年なら勉強の遅れは挽回できようが、高学年では取り戻す間もなく社会に出、多くの若者がゆとり時代に育ったハンデを負うことになるのではないか。
この間、少子化の逆風の中で絶好のビジネスチャンスととらえた予備校や学習塾が活発な営業活動を行い、大いに繁盛したと聞く。
なんのためのゆとり教育だったのだろう。