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エッセイ・コラム

颯爽たる日銀総裁 井上準之助

大平 忠

 日銀総裁としての仕事とは何か、これほど賑やかに論議されたことがあったかどうか記憶にない。総裁人事をめぐるニュースも毎日のように出ない日はない。これで思い出すのが、かつて初めて生え抜きの日銀出身として総裁となった井上準之助である。国の財政金融のみならず、日本経済そのもののリーダーとして、毀誉褒貶をものともせずに、仕事をやりまくった異色のテクノクラートであった。当時の世界は、第一次世界大戦が終結したものの混乱して先が見えない情勢にあり、その1919年に、井上は日銀総裁となった。

 井上準之助については、特に勉強したわけではない。下記の記述は、城山三郎の『男子の本懐』で、浜口雄幸と並んで井上について作者が思いをこめて書いたその引用と、多少他の本で読んだものから補足したものである。

 井上は日銀生え抜きといっても、1908年、ときの総裁に睨まれ、ニューヨーク支店に左遷される。ようやく日本へ戻れるときが来たが、敢えて横浜正金銀行へ活躍の舞台を求めた。まもなく頭取になるや、1914年6月第一次世界大戦が勃発した。このときの井上は情報収集力と国際感覚、そして国内各層との接触の広さから、大蔵次官浜口雄幸と緊密な関係が築かれ、将来の首相・蔵相コンビが誕生するお互いへの信頼が生まれた。
 この時代、正金銀行頭取として、寺内内閣が中国内政に突っ込んで企画した西原借款に断固反対した見識は立派であった。西原借款は、井上の危惧した通り、成果のない結末に終わった。

 1919年、原敬内閣の誕生と共に、高橋是清が蔵相に就任。かねて井上を見込んでいた高橋の力もあって井上は日銀総裁となった。ときに51才。
 しかし、金の輸出をめぐっては、高橋は金輸出禁止論、井上は金解禁論である。
 恩ある高橋にも真っ向から反対意見を唱えた。1920年3月井上が警鐘を鳴らしていた戦争景気の反動不況が始まる。(高橋是清とは、1927年大不況対策をやるべく再び蔵相・日銀総裁としてコンビを組む)
 皮肉なことに、水膨れ景気を怒っていた井上が、企業救済の担い手となっての活躍であった。総裁の椅子には座ることなく、立って仕事をすることが多かったらしい。内部改革に直ちに着手、衛兵をなくす。重役別室廃止。改善委員会の設置。従来、総裁の演説は理事その他が草稿を作ったが、井上は自分で作って演説してしまう。自分が一番勉強し、部下より自分の方が詳しかったからである。日銀生え抜きの第9代総裁が、最も日銀の空気を改革した総裁だったといえよう。
 1923年9月、関東大震災勃発。このとき、井上は消防隊を先導して燃え盛る日銀の建物の中に飛び込んでいったという。このあと、総裁を辞任するが、任期の最初から最後まで、自ら先頭切って仕事をやりまくった総裁であった。1922年には、貿易が出超となったことから大蔵大臣に金解禁を訴え、ひるむ大臣の尻を引っ叩いてきた。正金銀行時代から日銀時代にかけても、大蔵大臣、大蔵省からの働きかけを待つよりも、むしろこちらから政策を働きかける総裁であった。これは、金融財政のプロとしての自信、世界を見る目、情報収集力、国内外経済に対する見通し、寸暇を惜しんでの恐るべき読書量等等から来る見識と気概の表れではなかったかと思う。

 1923年9月1日関東大震災、2日に山本権兵衛内閣発足。井上は大蔵大臣になる。これも日銀出身としては初めての大蔵大臣であった。
 井上は大臣としても、その動きには鬼気迫るものがある。
 3日親任式。この日にモラトリアム(支払猶予令)発表。夕刻草案完成。
 4日早朝枢密院へ。7日法令は公布実施された。
 12日 罹災者に対し租税免除、軽減・徴収猶予とする法令、生活必需品などの輸入税を免除・軽減する法令、これらを緊急勅令として公布・実施した。
 井上の大臣としての仕事はたったの4か月であった。しかし、復興財源をめぐって大喧嘩をやった後藤新平曰く「属僚も使わずあれほど明快な説明をどんな問題でも明白に賛否を言い切る。近頃の掘り出し物だ」
 この裏には、実は井上の死に物狂いの勉強があったのであった。

 1927年、高橋是清に請われて、金融大恐慌対策のためにと再び日銀総裁となり、1年1ヵ月鈴木商店など倒産相次ぐ実業界立て直しのため粉骨砕身する。しかし、毀誉褒貶の大波に洗われた。

 このあと、浜口雄幸内閣の蔵相として世に残る浜口・井上コンビの金解禁大作業が開幕する。しかし、1931年浜口は前年の狙撃後遺症により死去。
 1932年2月、井上も凶弾に倒れたのであった。
 第一次世界大戦前後の好不況、襲ってきた世界恐慌、その大波をかぶって翻弄される国内経済、それに加えて軍部の大陸への突出、現在の日本の状況に比べて当時の渦中にいた当事者は、もっと危機感は高かったかもしれない。その時代に仕事をやり抜いたのが井上準之助である。浜口・井上のコンビでなければ、軍事予算の拡張を止めることもできなかったであろう。ひょっとしたら、その後の大陸への軍部の侵略行為も制御できたかもしれない。浜口雄幸とともに井上準之助は、戦前の偉大な政治家の一人であった。テクノクラートを超えてしまった偉大なステイツマンであった。

 いま、日銀総裁の資格として出身がどうのこうのと言っている。ばかばかしく末梢な問題である。大蔵出身が日銀総裁になるもよし、日銀出身が大蔵大臣さらに総理になってもいいではないか。
 新総裁は、『男子の本懐』を読んだとは思うが、もし未だであれば、是非読んでもらいたいと願う者である。

(平成25年3月5日)

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