終活
昔も昔、今のかあちゃんと恋人同士であった頃、闇に包まれた新宿の公園の木陰で何だかお熱いムード。その最中、誰かにポンと肩を叩かれた。
(誰だ、こんな肝腎な時に!)と瞬時に怒りを爆発させながら後ろを振り向く。
「この辺りは置き引きや出歯亀が多いから、気を付けなきゃ駄目ですよ」
と中年風のお巡りさんが優しく言いながら、彼女の足元にあったハンドバッグを手渡してくれた。
二人はお礼をいうと、そそくさと街灯のある方へ。恐ろしいやら恥ずかしいやら、二人はしばらく無言のまま手を握りしめて歩くだけだった。
あれから50年。月日の過ぎ行く速さに今更ながら驚く。
当時の初々しさなどは何処へやら。最近では事あるごとに口論が絶えない二人。
人は、性格にもよるが、高齢に達するほどに短気になる、とはよく言われる。
かつては名だたる名人、本因坊であった囲碁棋士も、今は若い低段者にコロコロと負かされてしまう。原因は力や能力が落ちたのではなく、深い読みと緊張感、そして長いながい旅路(勝負の決着)に堪えることができなくなったせいである。つまり、一説によると、脳を活発化させ、持続させるのに不可欠な酸素の供給が減少したことに拠るものらしい。
我が夫婦間での出来事はこんな高尚な問題ではなく、単に古漬けが鼻につき、互いに何の魅力も無くなり、そして気が短くなっただけのこと。更には、相手の非や過ちを容認するだけの器量が小さくなったことだけである。
ただ幸いなことに、金輪際二度と口をきいてやるもんか、と堅く決心したのにもかかわらず、それは半日も持たないことだ。
これでいいのだ、と思っている。どんどん喧嘩をして、いつの間にか仲直りをしてしまう惰性の生活。
いま巷間で話題になっている〝終活〟。その定義が「人生の最期を迎えるにあたって行うべきことを総括する」ことらしい。自分史などを遺すのもその一つだが、更に心の持ちようとして、〝昔を想い出し〟それを〝傷口に塗る〟こと、そして腹が立つことが多いけれども、じっと我慢して〝現状を容認する〟こと、等を加えておくことにしよう。