人質いろいろ
この頃は気候が不順で「暑さ寒さも彼岸まで」の台詞が信じられない。それでも季節の春は巡ってくるが「アラブの春」は遠い感じである。シリア、エジプト、パレスチナもおかしい。アルジェリアの人質事件では我が同胞にも影響が出てしまった。この悲報には哀悼の意を表すしか術がなかったが、石油関連施設では、サウジ、エクアドル、ヴェネズエラで同業他社と関連を持ったので他人事と思えなかった。すでに二昔も前の話だが私にも人質経験がある。湾岸戦争時、イラクから出掛けたクエイトでイラク軍侵攻に会い、日本大使館地下室へ逃げ込んだが、再びバグダッドに連行され「人間の盾」なる人質とされてしまったのである。あのころは双方にまだ余裕があったのだろう、人質でも客扱いをしてもいるのだとイラク側はこれをゲステージと称していた。GUESTとHOSTAGEからの造語である。この時の地下室生活やバグダット状況に関するエピソードを書きだせば数多あるが、個人情報もあり大袈裟に言えばCIAも絡んで日米関係にも影響するかもしれないと封印してきた。今や20年も経ちすべて時効だろうから、無難なものから披露しよう。
年若い妙齢の美女十数人と豪華ホテルで過ごした数週間もその一つだ。ホテルはバクダッドのマンスール・メリヤ、美女群はJALレデイだった。
1990年8月2日深夜、ロンドン発ボンベイ経由で飛来したJAL便はイラクのクエイト侵攻について何も知らずクエイト空港に着陸し、直ちに待ち構えていたイラク軍に乗客、乗員とも拘束されてしまった。支店長はじめJALグル-プがクエイト在住日本人家族やホテル泊の出張者が集結していた日本大使館に入ってきた時は男女混成だった。だがイラクに転送されホテルに拘禁されたときは女性だけになった。男性が人間の盾として重要施設に配置されたからである。たまたま私と若い部下はクエイトへの出張者でイラクビザ保有者だったからか日本人男性として二人だけが残された。十数人の若い美女群に二人の男のみ、平時なら頬が緩む状況かもしれない。時々秘密警察らしい私服のイラク人が見回りに来る。クエイトでは彼女達もレイプ犯だと聞かされたイラク兵がクレーンに吊るされたのを見ていた筈だから、見回りに来る私服のイラク人にも身の危険を感じていただろう。そこで我々二人の日本人男児が彼女らを守らねばと、毎日二回部屋をノックして回ることにした。「異常ありませんか」の問いに、彼女達はチエーンを架けたまま、僅かに開けたドアからちらりと顔を見せ頷くだけで、たちまち激しく音を立ててドア-を閉める。イラク人と間違えたか、よほど不安だったのか素っ気なくつれない態度でこちらの善意を無視されたように感じ釈然としなかった。部屋に帰り自分の人相を鏡に映し「宣なるかな」と二人で苦笑いして互いに慰め合ったものだった。
その後もガ-ドマン役を続け、短波ラジヲで聞いたBBC放送の内容を知らせたりしているうちに、リーダー役の麗人とは意思疎通ができてきた。しかし、若き美女群と知り合う機会はなかった。私はともかく若い部下にとっては残念だっただろう。その内サダム・フセインの人道的配慮で女性と子供は帰国を許すということになり、彼女達は帰国を許されたが男性は人間の盾として残された。その後は政府関係者他中曽根元首相やアントニオ猪木他多くの人の尽力もあって、数ケ月で最終的には全員が帰国することができた。
帰国後暫くして、思いがけずマンスールメリヤ・ホテルで一緒だった彼女らの代表から当時の懐旧談をやろうと声がかり、そこで当時の緊張状態を知らされ納得したのである。後日談もあり、数年後他の部下とJAL女性との結婚式では、私と当時のバグダッド支店長が双方の主賓としてスピーチする偶然がかさなり何かの因縁を感じたものである。思えば、サダム・フセインもオサマビン・ラディンも捕えられ処刑されたが、アラブ側の聖戦は終わりそうもない。古くは十字軍の時代からの恩讐もあるのだろうが、双方の宗教も寛容の精神を説いている筈だ。中東に平和をと切に祈りたい。