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エッセイ・コラム

泰緬鉄道の捕虜虐待

玉山 和夫

第二次世界大戦中の日本軍による泰緬鉄道の強行建設で一万二千六百名もの連合軍捕虜が死亡したことから、日本軍による捕虜虐待として各国から強く非難されている。捕虜を管理していた日本軍の責任であることは言うまでもない。
しかし「虐待」という言葉が先行して、事実が誇大に宣伝されている面も多いにあるので、
これに対処するには秦さんが言われているように、学術書として受け入れられ内容の本を一流の出版社から出版して識者に訴えようと考え、Railwaymen in the Warを英国で出版した。八年たった今年になって、その本を読んで役に立ったというBBC取材者の訪問を受けた。泰緬鉄道を含むドキュメンタリのためだとして、準備がないまま撮影されたので、しどろもどろでであったが、次のようなことを話した。

虐待というと、捕虜が殴り殺されたような印象を受けるが、実際にそのような暴行を受けて死亡した捕虜は数人に過ぎない。連合軍捕虜は死亡した仲間の記録を隠し持っており、それをもとに加害者をもれなく、戦後連合軍によるBC級戦犯裁判で裁いた。捕虜収容所の看守など四十二名が死刑になっているが、実際に判明した暴行リンチによる捕虜の死者は数名であった。
捕虜の死亡のほとんどが病気によるものであった。勿論管理する日本軍が適切な対処をしなかった責任は逃れられないが、捕虜の自己管理が悪かったことが事態を悪化させたのであった。病気のなかでもコレラが多く、かかれば致命的であった。コレラの予防注射を一部の捕虜にしかしなかったと非難する人がいるが、当時のコレラの予防注射はほとんど効果がなかった。医学が進歩した七十年後の現代においてもコレラの予防注射は50%ぐらいしか効果がなく、WHOはコレラ蔓延地帯に旅行する人には予防注射を義務づけてはいないぐらいである。コレラは伝染力が強いが、唯一の予防法は菌を口に入れないことであった。一旦コレラにかかれば治癒はまず望めなく死に至るのであった。
捕虜は熱帯で労働に従事するのに、水筒一本で一日を過ごすのには口渇に耐えなければならなかった。渇に耐えかねてコレラ菌で汚染していた川の水を飲んだり、飢えのため川魚を生でたべたりして、コレラに罹るものが続出した。一方統制のとれていた部隊では予防のための規律が守られコレラにかからなかった。捕虜の四分の三は自制して病気で死ななかった。
コレラの予防には捕虜各人の自己規制が求められるが、これを徹底させることは管理者としてはできないことで、コレラによる死亡は日本軍のみの責任とはいえない。

また3年余の抑留で捕虜が痩せ衰えたことから、食事を充分に与えない虐待だと非難された。しかし捕虜にはジュネーブ国際条約の規定にそって日本兵と同量の米を主とする食糧が支給されていた。(調理は捕虜がしたが日本兵のように丁寧にはしなかった。例えば野菜の不足を補うため日本兵は豆から萌やしを作ったが、捕虜はこのような手間のかかることはやらなかった)雨季には輸送難のため支給がとどこおったこともあったが、定量をずっと支給されていた捕虜でも6キロから12キロ体重が減少していた。しかしこれは白人は日本人より腸の長さが短く(日本人の12メートルに対して白人は8メートルぐらい)それに米飯を好まなかったので良くかまずのみこんだので、消化吸収が悪かったのである。これは西欧諸国間の戦争を考えて作られた条約が白人と日本の戦争を想定していなかった欠陥であって、一概に日本軍の責任ばかりとはいえない。

捕虜になること自体実に不愉快惨めなのである。どこの国であっても捕虜になれば行動の自由を奪われ、絶えず銃を持った看守に見守られ、好きでもないあてがいぶちの食事を与えられ、労働を強制され、自尊心を奪われ、本人にとってはひどい虐待となる。元捕虜が謝罪や補償を要求したくなるのもやむをえない。

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