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エッセイ・コラム

北朝鮮は江戸時代の日本と同じか

平尾 富男

 近代化が欧米諸国より遅れた日本は、中央集権により国家発展の設計図を描いてきた。それがある程度達成された以降は、地方分権が現代日本の発展には欠かせなくなる。
 地方分権とは、地方のことは出来るだけ地方に遣らせるというという国家の政策である。歳入歳出の面から見れば、最近の日本の地方分権化はかなり進んでいるようにも見える。一方、本来東京都も地方の一つであるはずだが、これは何とか屁理屈を言って国の篤い庇護の下に置かれている。実態は中央集権でありながら地方に財政的な負担を押し付けるカモフラージュとして地方分権化を表面的に進めている側面もあるのが現状だ。

 江戸時代はどうであったか。江戸幕府は、中央に富を集める工夫はしたが、地方のことは地方にまかせっきりだった。従って、地方の大名たちは基本的には自治をせざるを得なかったのだ。幕府は富と権力の集中化にだけ腐心しながらも、自分に都合の悪いことに関しては大名たちに対して口を挟んできた。地方にとって幕府の存在は、地方の藩・大名同士の戦争から解放されて、表面的には平和に過ごせたということだけであろう。
 一方、幕府のお膝下の江戸とその周辺は、その成り立ちからして消費社会として発展してきた。そこに住む庶民も貧乏ではあったが、消費文化の恩恵に与っていたから幕藩体制、なかんずく将軍様を畏敬の念を持って仰ぎ見ていた。

 今の北朝鮮も将軍様のいるピョンヤンに体制の本拠を構えているから、そこに住む一般市民はそれ以外の都市、ましては農村部の住民たちよりは遥かに豊かな暮らしをしている。だから、体制維持と将軍一人に畏敬の念を集中させて生きるほうが得策と考える。ピョンヤンは北朝鮮の中では、自由社会から見れば極めて限られてはいても、将軍様を奉ってさえいれば、贅沢のおこぼれにも与れる「地上の楽園」であるに違いない。
 こう考えると、北朝鮮の現体制は江戸時代に酷似していると言っていいのかもしれない。歴代の徳川将軍と同じように、三十歳そこそこの金正恩(キム・ジョンウン)が父親の金正日(キム・ジョンイル)から将軍職を受け継ぎ、建国以来三代続く世襲政治が確立されている。

 百五十年前の日本は、今の北朝鮮と同様に歴代の世襲将軍たちに権力を集中させながら、対外的には閉鎖された鎖国体制を敷き、国内的には警察と裁判の機能を未分化にさせておき、残酷な刑罰と密告によって国を治めていた。
 最近になって江戸時代を過度に美化する風潮は、安易なホームドラマ的絵空事の娯楽テレビ番組によって、本当の歴史的事実が覆い隠されてしまっていることと無関係でないかもしれない。
 江戸時代が一般市民にとって極楽平和で豊かな社会であったならば、例え黒船の浦賀沖への来航によって目を覚まされたという事実があったとはいえ、明治維新による一気呵成の近代国家実現を成功させることはできなかった。
 江戸時代の日本は農本主義による貧しい国だった。だから「武士は喰わねど…」的な精神論が跋扈して人々の目が欺かれたのだ。
 近代化を急いで推し進めなかったなら当時の列強と伍してはいけず、今の日本の国のありようは全く違ったものになっていた筈である。

 翻って、今の北朝鮮。国際社会から孤立した前近代的な体制のままでは、いずれ国が滅んでしまうことは目に見えて明らかである。江戸幕府と違うのは、攻撃兵器の装備の面での潜在力を誇示することによって、日本を含む周辺諸国のみならず米国をも脅そうとしている点である。だからこそ、長距離ミサイルと核爆弾の早期実用化は体制維持のために「当面の」最優先課題なのだ。三代目将軍は核の脅威を振り翳し、伝統的な挑発外交路線をエスカレートさせている。

 そんな北朝鮮への対抗上、日本も核武装すべきだとか、自衛隊の軍事力を増強すべきだとかの声が高まっていることは忌々しい事態と言わねばならない。かつての朝鮮動乱に夢を馳せている輩や、戦争はお金儲けになると考える企業家たちだけではなさそうなのが恐ろしい。安部政権になってから、太平洋戦争に突き進んだ頃の日本の体制への反省が薄れつつあると心配する論評は、今の日本のジャーナリズムからは余り発信されないのも恐ろしい。
 日本が核保有国となれば、朝鮮情勢は好転すると考える勢力が密かに、時に昂然と台頭しつつあるのが心配だ。日本の大それた軍備拡張戦略が、北朝鮮を自暴自棄に追い込む可能性はますます大きくなることを肝に銘じて、対北朝鮮政策を推し進めるのが正しい日本の立場である筈だ。挑発には無視で対抗すべし!

 忘れてならないのは、日本は世界に誇れる「戦争放棄宣言」を憲法に盛り込んだ世界有数の国であり、核の犠牲国であることなのだ。核廃絶は日本の悲願である。

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