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エッセイ・コラム

井上成美の硬骨

大平 忠

 日露戦争での海軍参謀・秋山真之の言葉がある。
「吾人の一生は帝国の一生にくらぶれば鴻毛の軽きが如し、されど、吾人、一生をぬすめば帝国の一生是危うし」と。
 秋山真之の後輩たちは、必ずしもこの言葉通りに身を処した訳ではない。帝国のためよりも、海軍の自己防衛のために行動した者が多くいた。歴史が物語っている。
 その中にあって、「帝国の一生是危うし」と、覚悟して行動した海軍軍人がいた。最後の海軍大将・井上成美である。
 阿川弘之の『井上成美』を読むと、そのときどきの海軍上層部への抵抗が詳細に描かれている。
 昭和8年3月、井上は軍務局一課長であった。満州事変後の陸軍の動きに刺激され、軍令部は部長に伏見宮をかつぎ出し、兵備・兵制など、権限大強化に乗り出していた。井上は、これでは軍令部に戦争決定のフリーハンドを渡すことになると反対した。これに対して、軍令部南雲二課長は「殺してやる」と脅しをかけた。井上は、遺書を書いて引き出しに入れていたという。伏見宮は、「本件通らなければ職を辞す」と言いだし、海軍大臣、次官とも止むなしと折れた。井上だけは頑として譲らず、更迭されるまで半年間抵抗した。これ以後、海軍では軍令部が突出して独走することになる。
 昭和16年初頭、井上は航空本部長であった。軍令部の戦艦巨砲主義の軍備計画に対して、上層部では一人反対し、意見書『新軍備計画論』を提出した。それは、航空機重視、洋上交通路の護衛、潜水艦増強の三点であった。このまま開戦すれば、陸海軍全滅、東京占領、全土占領で終わると警告した。開戦後の経緯は井上の警告通りになった。
 昭和16年9月、山本五十六は近衛首相から「海軍の見通し」を聞かれ、「一年半は暴れてご覧に入れます」と答えた。井上はこれを知り、切歯扼腕の言葉を吐いている。「海軍は対米戦争をやれません。やれば負けます」と何故言わなかったかと。
 井上が山本の立場であれば、ずばりと言ったに相違ない。明治に比べ昭和の海軍軍人は何倍にも増えた。しかし、昭和の秋山真之は、井上成美以外に知らない。

(平成25年5月23日)

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