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エッセイ・コラム

四谷の「谷」散策

池田 隆

 東宮御所の石垣に沿って歩き、外苑東通りの権田原交差点を右折すると、落着いたマロニエの並木道となる。道が緩やかに下り始め、生垣の隙間より首都高速や中央線の電車が下に見える。半世紀も以前の記憶だが、四谷のトンネルを出て、車窓から一瞬見えるこの周辺はスラム街であった。迎賓館の正門まで道なりに行くつもりだったが、急に好奇心が湧き、気が変わる。
 あの東京の恥部のような所はどの様になっただろうか。坂を下りた所で狭い道へと左折してみる。付近は小綺麗なビルや新しい住宅が建ち、昔のイメージは残っていない。
 道は鄙びた商店街となり、曲りくねりながら、谷間の奥へと続いている。両側の民家が古びて、小さめになっていく。公明党と共産党のポスターだけがやたらと目につく。左右の路地を覗くと、二階に洗濯物が堂々と干してある。下階には草花を植え、狭いながらもキチンとした清潔な佇まいである。見かける人も普段着のまま、のんびりと話し込んでいる。
 立ち止り、手提げから江戸期の古地図を取り出す。この谷間は鮫が橋と呼ばれ、小川に沿った芸人や役者、戯作者などが多く住む町だった。江戸の町文化はこのような湿り気のある谷間から生まれたのだろう。両側の乾いた高台のような場所は武家屋敷や寺社に占められていた。
 谷筋から右手の坂を登り、服部半蔵の墓に参拝する。再び谷筋に下り、逆側の坂を上る。幾つもの寺が両側に並ぶ。寛永期に都市計画事業のため麹町付近の寺が集団移転してきたという。坂を上りきった辺りは左門町という屋敷街で、その一画に於岩稲荷がある。
 本来の於岩さんは働き者で貞淑な武家の奥方だった。それが死後二百年も経って、鶴屋南北が歌舞伎狂言「東海道四谷怪談」を書いたことで、復讐心に燃える醜い女性にされてしまった。谷間に住む南北は高台に住む武士へ底意地悪い妬みを感じていたのだろうか。あるいは武家の堅気な女性に横恋慕でもして、その腹癒せの作か。とにかく名誉棄損の極みで、於岩さんにはふかく同情する。
 於岩稲荷からすぐ近くの須賀神社へとまわる。表通りから奥まっているので目立たないが、金色燦然と輝く立派な社殿である。四谷の鎮守様として、今でも住民に慕われている雰囲気だ。
 谷筋に戻り、さらに奥へ進むと、三方をふさがれた地形となる。小川の源流地点だったと思われる。そのまま坂を上りきると、甲州街道(新宿通り)の津の守坂入口に出た。人と車が激しく行き交う現代に、とつぜんタイムスリップした気分になる。

 「四谷」と言えば、四谷駅から四谷四丁目までの新宿通りのイメージしか、頭になかった。それは尾根の上を通る表通りで、すこし脇にそれた谷間は全く別の顔を持っていた。では新宿通りを挟んだ反対側は如何なのだろうと、またまた好奇心が湧く。
 信号を渡り、数十メートル左の「車力門横丁」という路地を入ってみる。小さな飲み屋が密集した歓楽街である。その先は石段となり、窪地に入り込む。すると小さな池の脇に、「津の守弁財天」と書かれた祠を見つける。
 説明板を読む。この一帯は摂津の守、松平家の屋敷であった。庭園の池には滝があり、その傍に弁財天が祀られていた。明治期になり、屋敷が一般に開放されると、風光明媚な庭は一躍脚光を浴び、花街に囲まれた観光スポットになった。先ほどの飲み屋街は花街のなれの果てである。それにつけても、薄汚れたビルの裏側に囲まれた現在の光景からは想像もつかない。
 窪地のなかには数十軒の民家が建っている。そこから抜け出すには、必ず石段か坂を上らなければならない。まるで四谷の臍のような地形である。大雨でも降ったら、水没するのではないか。他人事ながら心配しつつ坂を上ると、外苑東通りの荒木町・舟町交差点に出た。
 四谷のうち、二つの谷を探索した。もう二つは何処だろう。好奇心は止まないが、足も疲れてきた。今回はここまでとしておこう。

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