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エッセイ・コラム

企業とは何か

森田 晃司

 過日、企業OBペンクラブの分科会のサロン21で、「日本の目指すべき方向」の第三回として、「グローバル大競争と企業のあり方」というテーマで討論を行った。プレゼンテーション担当の山縣さんを始め、20名が参加し、活発な議論を展開した。
 企業のあり方については、出席者がそれぞれの考えを持っているが、大企業と中小企業はいわば車の両輪で、日本の産業が生き残っていくために、互いに支え合っていくべきものとの認識ではほぼ共通していた。
 ただ、中小企業の可能性・潜在能力などに関しては、称賛と期待の声が相次いだのに対して、大企業についてはその必要性は認めるものの、その現状、とりわけ経営者に関する評価は極めて辛辣だった。
 日本の民衆は勤勉だが船長が居ない、中間層は優秀だがエリートは欧米・アジアのそれと比して資質、能力、働きぶりとも大幅に劣るなどとの意見がほとんどである。なかでも、経営者の代表が集まっているはずの経団連に関しては、即刻解散すべしといった意見が大半を占めた。
 確かに、近年の経団連からは自社の利益代表といった色彩が強く感じられ、公益が蔑にされている印象を受ける。官界では、長く「省益あって国益なし」と言われ、政界でも支持者への利益誘導が目立つ。短期的な私益の最大化に優れた人たちがトップに上り詰めてきた構図が覗われる。
 私欲を抑え、公益を重んじる指導者を崇める日本の社会の伝統的な価値観と、私益にからめとられた現代のトップ層とのギャップが、私たちをして現代エリートへの不信感を募らせる形となって表れているのかもしれない。
 しかし、考えてみれば、自らの部署の業績を高め、利益を最大化することに何十年も邁進してきた人たちに、トップについたとたんに公益を優先して振る舞えと言っても、戸惑いを覚えるのだろう。
 小生が社会に出た半世紀近い昔には、社会に役立つ仕事をしようという気風が多くの大企業には横溢していたと思う。それが、いつしか予算達成に追われ、効率の最大化が最優先される世となった。かつては、金儲けの上手い人はそれなりの処遇は受けるにしても、会社のトップにはバランス感覚の優れた包容力のある人材などが選ばれるのが通例だった。
 大企業経営者への辛辣な評価は、企業とは何か、企業の社会的存在意義とは何か、をあらためて問いかけるものと言える。好むと好まざるに拘わらず、グローバル大競争に巻き込まれかねない現代だからこそ、グローバル・スタンダードに流されない企業像を再構築すべき時のようだ。それも、一般民衆に公益を重んじる健全性が辛くも残っている今のうちに行うべきだと言える。

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