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エッセイ・コラム

特攻に反対した男たち

大平 忠

 2009年に放映されたNHKスペシャル『日本海軍400時間の証言』の第2回は、特攻「やましき沈黙」についてであった。軍令部はじめ特攻の作戦に関係した筈の海軍参謀たちは、「取ってはならない作戦であると思いつつも、当時の空気としては口に出せなかった」。そして「やましき沈黙」という言葉が秘かに流れたという。

 特攻は、あくまで現場の戦場においての志願という形を取ったが、純粋に国のためにと志願する航空兵士から、逃れられずに海軍を呪いながら飛び立った者まで、実際は多様であったという。いずれにせよ、指揮官であれ航空兵士であれ、自分は部下を行かせない、あるいは、自分は行かないと、上司に宣言できる人間は極めて少なかったことは事実である。
 しかし、「やましき沈黙」を守った高官たちに対し、他方、第一線戦場の指揮官あるいは搭乗兵には少数ながら反対を貫いた人たちがいた。

「最強の零戦パイロット」と謳われた岩本徹三は、「われわれ戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、敵を一機でも多く叩き落としていくのが任務じゃないか。一度きりの体当たりで死んでたまるか」と言って反対したそうである。岩本はそれを言ってのけるだけの実績を挙げていたからこそ、そう言えたのであろう。終戦までの撃墜敵機数は202機であったという。
 部下を率いた指揮官としては、第343海軍航空隊飛行長志賀淑雄少佐(肩書は終戦時のもの。以下同じ)、第203海軍航空隊戦闘第303飛行隊長岡嶋清熊少佐の名前が残っている。志賀少佐は以前から上司にはっきりものを言う人間だったらしい。部下を出さないことは黙認されたという。岡嶋少佐は、自分は国賊と言われようと断乎部下を特攻には出さないと終戦まで頑張った。
 もう一人、第131海軍航空隊飛行長美濃部正少佐は、作戦上、特攻よりも効果的作戦があると第3艦隊でただ一人反対した。零戦も数少なくなった今では特攻は戦果を上げられずとして、別の作戦を提唱した。欠陥艦上爆撃機といわれた「彗星」を静岡県・藤枝、後に鹿屋に集め、3個飛行隊をもって沖縄方面に夜間爆撃を行うというものであった。昼間は、滑走路・飛行機を偽装して敵機の爆撃を逃れ、夜間に出動した。芙蓉部隊と称されて、終戦にいたるまで戦果を挙げ続けた。損耗は47機、終戦時にはまだ50機残っていた。戦後は、航空自衛隊の育成に尽力し空將で退官した。この美濃部正は、次のような言葉を吐いている。
「戦後、よく特攻戦法を批判する人がいます。それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎません。当時の軍籍に身を置いた者には、負けてよい戦法は論外と言わねばなりません。私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり、特攻またやむをえずと今でも考えています。戦いの厳しさは、ヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではありません」
 この言葉は重い。ずしりと腹に応える。すさまじい戦いの場に身を置き戦争の不条理を体感した人間でなければ吐けない言葉であろう。

 今年もまた夏を迎えた。積乱雲が出てくると、見たこともないのにキラリと光る零戦の飛ぶ姿が思い浮かんでくる。家族のために俺は生きると部下にも言いながら、最後は敵艦に突入した零戦乗りの物語、百田尚樹のデビュー作『永遠の0』は、昨年の文庫本販売No.1だったそうだ。宮崎駿のアニメ、零戦設計者堀越二郎の物語がいま封切られている。
「特攻」と「零戦」は、日本人の心に、鋭く痛い記憶をそれこそ永遠に残していくことであろう。

(平成25年7月31日)

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