作品の閲覧

エッセイ・コラム

京都錦小路命名奇譚

浜田 道雄

 京都左京の四条通を一本上がった錦小路は、道幅は三メートルそこそこ、長さも寺町通から烏丸通までの数百メートルあるかないかの文字通りの小路だ。だが、そこは、何百年もの歴史を誇る老舗が百三十軒あまりも軒を並べていて、京野菜や湯葉、漬物、惣菜など京料理の食材がなんでも揃う『錦市場』だ。年の瀬ともなると、正月用品を求める京の街の人々や京都の年末の風情を楽しもうと集まる観光客でごった返し、東京上野のアメヤ横丁にまさるとも劣らぬ賑わいを見せる京都の観光スポットでもある。
 そんな錦小路の名の謂れについて、『宇治拾遺物語』は奇妙な話を伝えている。

 平安時代も中ごろのこと、京に清徳の聖という聖がいた。母親が亡くなったので、弔いのため遺体を愛宕に運び、三年の間飲まず食わず、眠らず休まずに母の菩提を祈って陀羅尼を誦えつづけた。その甲斐あってか、三年経ったある日夢に母親が現れ、『お前の陀羅尼供養のおかげで、今は仏になった』と告げたので、聖は母の遺体を焼き、埋葬して京へ戻ることとした。
 途中、聖はひどく空腹を覚えたので、道端に広がる一町ほどの田に植えられた『なぎ』(1)を見つけ、取っては食い、取っては食いしながら歩いた。夢中で食べたので、『なぎ』はすぐに食い尽くしてしまった。
 これを見ていた田の持ち主は、よほど空腹なのに違いないと哀れみ、米一石を炊いて布施したが、清徳の聖は『この三年、なにも食わなかったので』といいつつ、これも瞬く間に食べてしまった。田の持ち主はひどく驚いて、聖のことを人に語ったところ、話は瞬く間に京中に広まり、有徳な聖が現れたと噂になった。
 これを聞いた坊城の右大臣(2)は、『おかしなことだ。家に招いて、メシを食わせてみよう』と思い、十石の米を炊き、清徳の聖に布施することにした。
 聖は喜んで、早速屋敷に参上したが、それを見た右大臣は驚いた。人々には聖一人が参上したとしか見えないのに、右大臣には、聖のうしろに無数の餓鬼、畜生、虎、狼、犬、からすなど怪しげなものどもがゾロゾロと付いて来るのが見えたのだ。そして、出された斎も、聖は少しも食べずに、ただ餓鬼どもがガツガツと食らうのを喜んで見ているだけと知った。人々には、清徳の聖一人が十石のメシを食い続けているようにしか見えないのに。
 右大臣は『この聖はただ人ではない。仏が聖の姿で示現されたのに違いない』と思い、敬ったという。
 清徳の聖と、十石の斎を食べ尽くし満腹した餓鬼どもは右大臣の屋敷を出ると、やがて四条の北の小路にさしかかった。と、餓鬼どもはそこで急に便意を催し、道いっぱいに糞をしながら歩いた。その汚物と臭気は辺り一面に広がり、いつまでも消えなかったので、京の人々はひどく汚(きたな)がり、やがてその小路を『糞の小路』と呼ぶようになった。
 それからいく年かが経った。この話を聞かれた時の帝(3)は、糞の小路に住む人々を哀れがり、新しい名をつけてやろうと思った。そして、四条大路の反対側、南にひとつ下がったところが綾小路であるのに因んで、「これからは、その小路を『錦小路』と呼ぶように」と命じられたという。

 今日、『京の台所』として繁昌する錦小路が、もとは『糞の小路』だったなんて。ひどい話だ。
 だが、よく考えてみると、命名譚として必ずしもおかしくはない。出口が入口に変わっただけなんだから。話は繋がってはいるわけだ。
 『宇治拾遺物語』の編者といわれる源隆国のいたころ、錦小路はまだ『京の台所』になってはいない。だが、この話、どのような美味、高価な食べ物も、所詮は排泄物になるにすぎない、と語っているとは、解釈できないだろうか。

(1)水草の一種。どのような水草かは知られていない。水葱か?ともいわれている。
(2)藤原師輔。九条流摂関家の祖。
(3)角川文庫版『宇治拾遺物語』の校注者は、この帝を後冷泉帝としている。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧