『飯』家の人々(第一話)
尾道と四国の今治をつなぐ『しまなみ海道』へ出掛ける事となり、今治出身のW夫人に気軽く教えを請った。話題がご当地の魚やうどんから、実家の祖先に及ぶ。
彼女の旧姓は『飯(いい)』という。
ご先祖が天明の飢饉の折に蓄えていた米俵を周辺の住民に分け与えたので、感心に思った藩主がその名字をつけたとのこと。
時代は下り、明治維新前後の話になる。
一藩の城下町として栄えていた今治の町は廃藩置県によって急速に衰退に向う。
その時に立上ったのが、彼女の祖父の祖父にあたる飯忠七である。少年の頃より海に出て小舟を操るのが得意だった彼は、長じて御用染物屋の家業を止め、回船問屋を始めていた。
自ら三丁櫂、四人船夫の押切舟で島伝い、海岸伝いに今治より大阪まで伊予木綿や船客を運び、帰りには神戸で買い求めた舶来品を持ち帰る。町は活気を取り戻し始め、彼も財をなしていく。
しかし世の中は帆船や手漕ぎ船から蒸気船の時代に変る。彼の小舟ではとても対抗できない。大型船に物資の輸送を頼みたいが、今治の海岸は長い砂浜が続き、着岸できる岸壁もない。沖の来島海峡を頻繁に往来する大型貨物船を今治の人々は恨めしく眺めていた。
その時、忠七が自ら小舟を出して、無謀にも大型船に立ちはだかり、今治沖で定期的に停船し、伝馬船で運んでくる物資を輸送するよう船主に頼み込む。初めは断られ続けたが、彼の熱意と勇気に絆され、沖での荷の積み下ろしを引受ける船も出てくる。
今治の経済は再び上向く。しかし港湾がなければ、本格的な繁栄は望めない。そう考えた彼は港湾建設を国や県に働きかけ、ついに四国最初の国際貿易港を今治に実現する。
現在の今治は伊予木綿から発展した今治タオルや日本一の造船業を誇るが、その礎を彼が築いたと言える。
ただ町の人に訊いてみたが、彼の名前を知っている人は少ない。功績を称える背高い碑が今治港に立つが、漢文で記された碑文を読む人もいない。それを見上げながら、私はW夫人の話を反芻していた。