読書感想文・「怒りのぶどう」を読んで
1943年4月に出版されたスタインベックの作品で、当時、大きな社会的反響が巻き起こした。それは芸術的評価ではなく、かかれた内容が、実際より悲惨で、作品中の性描写がワイセツだというものだった。
だが、最初の数ページを読んで私はとりこになった。目を覆いたくなるような悲惨な生活の中で、人々はなんと崇高なのだろう。
殺人を犯し刑務所に入っていたが、仮釈放になったジョード家の大黒柱トムが、家に帰りついた時、一家は自分の土地を追われてカリフォルニアに向かうところだった。そこでは果物や綿花を摘み取る働き手を求めていたのだ。ジュード一家は一台のくたびれたトラックに、総勢13人と家財道具を全部詰め込んで移動をはじめることになる。
彼らだけではない。大不況のアメリカで大勢の人が土地を追われ、広告を見た人々がカリフォルニアに希望を求め、群れをなして移動する。
作者、スタインベックは、何もかもが不足している社会を、そこに集う人々を、そのなかの一人づつを、まるで糸を紡ぐように、細い糸で丹念に織るように綴ってゆく。人の外観や動作、何人かがたむろして語る言葉を読んでいると、トラックが列をなしている国道や、ブルドーザーで整地された赤茶けた大地をバックに埃っぽい道路の脇でうごめく人々がまぶたに浮かぶ。
物語の中では、希望と不安、病気、死、どれもこれもが、貧しさや、埃の中で繰り広げられる。
やっとたどり着いた希望の大地には、一時の平穏があった。読者の私はこれがずっと続きますように、これ以上悪いことがおきませんようにと祈らずにはいられなかった。与えられた環境で最大の人間の尊厳を持とうとする健気さ。
だがわずかばかりの幸せもそう長くは続かなかった。仕事も食べ物も不足する中で、持てるものの理不尽がまかり通る。安い賃金で人を雇う為に、大勢の競争者を集める。仕事にあぶれた者は食べられず弱いものから死んでゆく。
その目の前で、採れ過ぎた果物はその価値を下げない為に石油をかけて燃やされる。
こんな状況の中でもジョード家の人は他人を思いやり、互いに助け合う。そして、自分が正しいと思うほうに、諦めることなく黙々と歩いてゆく。
あとがきによると、この『怒りのぶどう』は聖書的技法で書かれていて、作者自身が敬虔なカトリック教徒であったとある。
物語の最後に身ごもった娘“シャロンのバラ”が死産をする。折りしも洪水で、一時の安住の場所すら追われ、やっと雨風を防げる棲家を見つける。そこには今にも命のつきそうな男と、その息子がいた。「お父さんは僕に食べ物をみんなくれて、こんなになってしまった。僕はそれを知らなかったのだ、助けて欲しい」と息子が懇願する。シャロンのバラは失われた命の糧になるはずだった乳をその男にやさしく与えるところで、物語は終わる。
困難な状況の中で大勢の人が、強いものの理不尽さに立ち向かっても完膚なきまでにねじ伏せられる。自然ですらも弱いものの味方をしてくれない。明日もその次も永遠に良くなる保証は無い。それでも人は与えられた〝生〟に対して最後まで誠実に向き合わなければならない。物語の最後にシャロンのバラは、飢えた老人に乳房を含ませた行為によって、うしなわれた命の糧で他の命をよみがえらせたという、崇高な喜びを享受することができたのだ。