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エッセイ・コラム

私の少年時代と大東亜戦争(一)…開戦

阿部 典文

 私の少年時代は大東亜戦争(太平洋戦争)一色に塗りつぶされている。子供なりに厳しい時代であった筈だが、今振り返ると夢のような体験の連続であった。
 その体験を『私の少年時代と大東亜戦争』のタイトルのもとに自分史の一齣として取り纏めたので、そのページを順次めくって「軍国少年であった私」の体験を紹介してみよう。

 その第一ページは昭和十六年十二月八日。その日の朝のラジオは大本営陸海軍部発表として、「帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」とのニュースを流し、戦争が勃発したことを国民に知らせた。

 国民学校二年生であった私は、その日の「日記」に次のように記している。
「けうは十二月八日だ。 ぼくは学校にきて二時間目にラジオで海の荒はしの大せんかがはっぴょうされた時、うれしくてむねがとびあがるほどうれしかった。ざいもくをつんだゆそうせんをげきちんしたといったのでうれしくなった。学校からかへってお母さんにはじまったわけをきくと、ハワイ海戦には山本五十六大将がハワイ海戦のさいこうしきかんだったといった。その次のしんぶんをみると(以下中断)」。

 日記が何故中断したか判らないが、次の日の新聞は「ハワイ・比島に赫々の大戦果」との二段抜きの見出しで、華々しい戦果を誇らしげに伝えていた。曰く「米海軍に致命的大鉄槌。戦艦六隻を轟沈大破す。航母一、大巡四をも撃破」。
 そして以後数日間の紙面には「特殊潜航艇隊の真珠湾への決死の突入」をはじめ、「比島で敵機百機を撃墜」、「ウエーク島を占領」、「皇軍シャム湾に上陸」等など、緒戦の大戦果で埋められていた。

 国民学校初等科二年生の「ぼく」にとって開戦の理由は理解出来なかったであろう。しかし勇ましい軍艦マーチで始まる戦果発表は、心躍る報道であり、又度々使用された艦船を一分以内に撃沈させることを「轟沈」と呼ぶとする熟語と、「山本五十六大将」は、少年の心の中に大東亜戦争のキーワードとして深く刻まれたようであった。

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