ボナー・フェラーズ准将の観た終戦の日本
映画プロデューサー奈良橋陽子は、日米合作ハリウッド映画の多くに携わっている。2013年の猛暑の夏に日本で公開された『終戦のエンペラー』(原題”Emperor”)もその一つである。
原作は、岡本嗣郎著のノンフィクション『終戦のエンペラー 陛下をお救いなさいまし 河井道とボナー・フェラーズ』(集英社、2002年)に拠るが、映画化に際しての監督は『真珠の耳飾りの少女』のピーター・ウェーバーであり、脚本は旧文部省の英国人特別研究員として、静岡県の熱海高等学校に勤務経験のあるデヴィッド・クラスが担当している。
日本ではタブー視されている天皇の戦争責任問題を取り上げ、アメリカによる戦後の日本占領政策の真実を映画で描くためには、ハリウッドの力を借りねばならなかったのだ。
新渡戸稲造と津田梅子の弟子で恵泉女学園を創始した河井道(かわいみち)の教え子渡辺ゆりと、マッカーサーの腹心の部下であり、アメリカの占領政策、特に天皇の処遇について大きな影響を与えたボナー・フェラーズの関わりの実話が、この映画のロマンス部分の下敷きになっている。
河合道はクリスチャンでありながら、天皇への強い敬愛の気持ちを失うことがなかった。その河合道に弟子として終生仕えた渡辺ゆりが、留学先のアメリカでフェラーズと同窓だった。フェラーズは渡辺ゆりを通して河合道に感化されていた。その事実がマッカーサーの対日政策に深い影響を及ぼしたことを考えると、女性の力の大きさに今更ながら脅威を覚える。
因みに、ボナー・フェラーズは、渡辺ゆりからラフカディオ・ハーンの著作を知り、日本人の精神性を学んだという。
映画『終戦のエンペラー』は、日本公開に先立ってアメリカで上映された。ボナー・フェラーズの目を通した終戦時の日本が描かれていて、日本人俳優が多く出演していながら、基本的には全編に亘って英語が使われる。当然、日本での映画公開には日本語の字幕が画面に出ている。因みにアメリカでの評判は余り良いとは言えなかった。
女優の初音映莉子が史実の渡辺ゆりの名前ではなくアヤという役どころで演じているのに対して、マシュー・フォックスが実在した歴史上の人物、ボナー・フェラーズを演じる。ハリウッド製の娯楽映画らしく、二人のラブ・ロマンスを絡ませながらも、天皇をはじめとする戦争責任者たちを探り出すというサスペンス的主題が描かれる。
冒頭、空襲で焼け野原になった日本の街の風景は、まさに瓦礫に覆いつくされた地獄の黙示録の世界。終戦の年1945年の日本が再現される。
丸腰のマッカーサー元帥が、トレードマークのコーンパイプとパイロット・サングラスの出で立ちで(実際の白黒映像は何度も過去に見させられてはいたが)威風堂々と厚木飛行場に降り立つ。原題の”Emperor”は、天皇ではなく敗戦国の将来を掌握しているマッカーサー自身を象徴するかのようでさえある。
人影が疎らな道路をジープが走り、崩れ焼き落ちた建物や街路樹の殺風景な市街地が広がる。人々はどこに行ってしまったのだろうか。CGも巧みに挿入されているだだっ広い焼け野原の情景によって、70年近くも昔の戦争の途方もない破壊力を思い知らされる。(実際の映画のロケーションはニュージーランド)
終戦処理を任されたマッカーサーは、連合国側が望んだ天皇の戦犯裁判が日本の再建に妥当かどうかの判断に苦しむ。そして側近の知日派として描かれるボナー・フェラーズ准将に対し、「天皇が開戦にどれほど責任があったかを10日間で調査し、裁判にかけるか否かを決める」ための証人探しの密命を与える。
勿論、壊滅状態の日本の再生は、天皇制を精神的支柱に据えるところから始めねばならないとするマッカ―サーの最終決断が、現在の日本の繁栄につながったという従来通りの評価が下敷きとなっている。一方、アメリカを中心とした連合国側の戦争責任に関しても、日本人証言者に発言させている点は、フェアーだと言える。
日本側の俳優陣では、近衛文麿役の中村雅俊、東条英機の火野正平、関谷貞三郎を演じた後に病魔に倒れた故夏八木勳、木戸幸一役で渋い演技力を発揮した伊武雅刀の他、西田敏行が鹿島大将を熱演する。
西田は撮影後のインタビューで、「日本人の心、メンタリティを英語で相手役のボナー・フェラーズ准将に伝えるという役どころだから、英語のセリフの暗記に最も苦労した」と語っている。
圧巻は、昭和天皇役に歌舞伎の片岡孝太郎を配したことだ。小柄な片岡がマッカーサー役のトミー・リー・ジョーンズの巨躯と並んだ写真撮影シーンは、マッカーサーと昭和天皇のアメリカ大使館内での歴史的な会見の雰囲気を彷彿とさせる。
これら日本人俳優の見事な配役(キャスティング)は、『ラスト サムライ』や『SAYURI』でも本領を発揮した奈良橋陽子を措いては不可能だった。天皇を補佐した関屋貞三郎宮内次官は、奈良橋本人の母方の祖父だったというから、この映画の製作には格別の思い入れがあったのだ。