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エッセイ・コラム

続・祖谷渓を巡る

野瀬 隆平

 奥祖谷から今夜泊まる宿に戻る途中に、運転手さんが、
「暇つぶしに、歌を歌いますが聞いてくれますか」
 という。そういえば、タクシーの腹に「民謡タクシー」と書いてあった。この運転手さんは、民謡が得意なのだ。
「是非、聴かせてください」
 当地でよく歌われている民謡、「祖谷の粉挽き節」だという。
 夜なべ仕事に女が粉を挽くときに、眠気覚ましに口ずさむのだそうだ。
「祖谷のかずら橋や くもの巣の如く
 風も吹かんのに ゆらゆらと……」そのあと、
「主と手をひきゃ こわくない……」 へと続く。
 哀調をおびた節回しで、しんみりと聴かせる。周りに何もない暗く寂しい山奥で、夜を過ごす人たちの哀しさが伝わってくる。
 先ほどは向かいの山から遠く眺めていたあの落合集落に、今度は車を乗り入れてもらうことにした。住む人たちの生活を身近に感じたかったからである。
 やっと車が通れるような、つづらおりの細い坂道を、何度もハンドルを切り返しながら昇って行く。自分の運転ではとても無理だろう。静かに暮らしているよその人の庭に無断で入り込むようで、気が引ける。
 向かいの山から正面に見えた、一段と立派な茅葺き屋根の民家にたどり着いた。声をかけたが、返事が無い。誰もいないらしいが、鍵などと言う無粋なものはかかっていない。運転手はまるで自分の家かの如く、我々に「どうぞお入りなさい」と言って、先頭にたって居間に上がり込む。囲炉裏が切ってあり、天井からは鍋を吊り下げる自在鉤が伸びている。部屋の隅に目をやると、黒い大きな長持ちが置かれている。まるで、「日本昔ばなし」の世界に入り込んだようだ。
 家の中をキョロキョロと見回していたら、おばあちゃんが現れた。畑仕事から帰ってきたようだ。挨拶をすると、
「やあやあ、よく来られたね。遠慮なく見て行ってください」
 と気さくに応えてくれる。
 おばあちゃんは運転手と世間話を始めた。住んでいる地区は違うが、お互いに同じ祖谷渓に住むとう心の繋がりもあり、時々客を連れて現れるので顔見知りになっているのだ。
 宿は大きな旅館だった。露天風呂が、見晴らしのきく裏山にしつらえてある。そこへは何と旅館専用のケブルカーで昇ってゆくのだ。祖谷の山々に囲まれた自然を眺めながら湯につかり、巡ってきた里山の風景を思い返しているうちに、向かいの山が夕日で赤く染まり始めた。
 夕食は、いくつかの囲炉裏がしつらえてある大きな部屋でいただく。地元でとれた山菜や川魚を使った郷土料理が、囲炉裏の細い縁から零れ落ちんばかりに並べられている。食事が進み酒もまわった頃に、着物に身を包んだ宿の女将が現れた。型どおりの挨拶のあと、先ほどの「粉挽き節」を、ここでも聴くこととなった。運転手の方がうまいと思った。(女将には内緒だが……)

 翌朝、お勘定をしようとフロントに向かと、英語が聞こえてくる。泊り客が何かを訴えているようだ。外見は日本人と変わらないが、英語を話している。中国人かも知れない。うまく通じない様子なので、連れ合いが間に入って尋ねてみると、昨晩、寝る時に枕が臭って困ったという。タバコの臭いでもしみついていたのだろう。宿の人も事情が分かり、「今晩お休みになるときには、そんなことが無いように致します」と客に約束して、一件落着。
 表に出て、バスが来るまでどう過ごそうかと、辺りを見回していたら、先ほどの英語を話す客が近寄ってきた。一旦乗りかけた自分の車から降りて来たようだ。
「さっきは、どうもありがとうございました。ところで、我々は今から、かずら橋に行くけれど、よかったら一緒に乗って行きませんか」
 と親切に誘ってくれる。
「昨日、もう行きましたから……」
 と丁重に断ったのだが、遠慮しているのではと思ったのか、本当かと何度も念を押してくる。
 そんなきっかけで、会話が始まった。よく見ると中国人とは少し印象が違うので、
「台湾からですか」
 と聞くと、
「いや、シンガポールからです」
「私も、シンガポールに住んでいたことがあるのですよ」
 と話がはずむ。
 五十歳くらいと思われる夫婦で、車の後部座席にもう一人座っている。
「私の母です」、と紹介された。
 はるばるシンガポールから、年老いた親を連れて、この山深い祖谷渓にきたのである。車のナンバープレートに目をやると、姫路の「わ」ナンバーだった。姫路でレンタカーをして、はるばる瀬戸内海を渡ってきたのだ。
 慣れない外国で車を借り、しかも道路がよくない山の中を走る勇気に感心する。と同時に、手つかずの自然が残る山里の風景は、外国の人にとっても、魅力のあるものなのだと再認識させられた。特に、高層ビルが林立するシンガポールに住んでいる人間にとっては、尚更であろう。

 大歩危から列車に乗る前に、大歩危峡に立ち寄る。時期は五月、渓谷には鯉のぼりが沢山泳いでいた。新緑を背景にして、その色鮮やかさが一層際立っている。遊覧船に乗って、吉野川が浸食してできた深い峡谷を川面から見上げ、自然の造形美に目を奪われる。
 時間が十分あるので、大歩危峡からは歩いて駅に向かうこととした。荷物は今朝旅館から宅急便で自宅に送ってあるので、身軽だ。
 途中に、昨日お世話になったタクシー会社の事務所があった。壁に貼ってある新聞の切り抜きが目に留まった。大きなタイトルが躍っている。「民謡タクシー 発声オーライ」とある。「発車」を「発声」と洒落ている。あの運転手、Tさんのことが、実名入りで紹介されていた。タクシーの乗客に、地元の歴史や文化を話して聞かせると共に、民謡を歌い継ぐ数少ない歌い手として、自慢ののどで民謡を客に披露しているとある。一年半ほど前から始めたことや、Tさんが今年六十歳であることも、この記事で知った。
 大歩危の駅前にある小さなスーパーに入り、車内で飲むビール、それにおつまみとして、量り売りしてくれる鶏のから揚げとトマトを仕入れて、駅へと向かった。

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