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エッセイ・コラム

「赤いナポレオン」

富岡 喜久雄

 ナポレオンと言う名から連想するのはフランスのナポレオン将軍だろうが、酒好きならブランデーのナポレオンを想うかもしれない。そうなら、ナポレオンに赤はあったかと訝るだろう。某紙のコラムで「赤いナポレオン」と謳われたベトナムの戦略家ボーグエンザップ将軍が、10月4日に102歳で亡くなったと報じていた。それで私も彼に会ったことがあることを思い出した。

 フランスのナポレオンはワーテルローの戦いで敗れたが、ベトナムの「赤いナポレオン」は独立の契機となったディエン・ビエンフウの戦いでフランスに勝利し、その後も米軍をサイゴンから撤退させてしまった。宗主国だったフランスは若干の敬意と負け戦の弁明を込めて、彼をナポレオン将軍に模したのだろう。赤は勿論コミュニズムの赤旗だ。それより彼もホーチミンも民族主義者だった言うべきだと思うのだが。
 それはさておきディエン・ビエンフウ攻略戦は、フランス対ベトナムの闘いと言われたが、かつての仕事仲間のラオ人からは、彼等もラオス国境を越えてこの戦いに参加したと聞いたし、カンボジア人も居たそうだから、言わば仏印三国の独立を賭けた戦いでもあったと言えるだろう。ボー将軍はこの作戦の功労者で、戦後もホーチミンの片腕としてベトナムで尊敬されていたから、以前から機会があれば会ってみたいと思っていた。そこに偶々面会の機会が訪れたのである。

 当時はハノイ市との合弁事業を順調に立ち上げ、その後の新規案件を模索していた頃だった。そこでハノイの中心街にある古いホールを近代ホテルに改装する設計企画プランを政府に提案した。その時ボー将軍はすでに高齢で、政府の要職に着いていたわけではないから事業への影響を期待した訳でなく、単なる表敬の意味で面談を申し込んでみた。
 ホーチミンは国民的象徴のアンクル・ホーとして愛されていたが、彼は戦略家らしく表に出るのは避けていたようだった。それでも政府系コンサルのアレンジで実現した。
 会話は友好親善の当たり障りのないものに終始したが、「赤いナポレオン」は小柄でどこにあれ程の強靭な意志があったのかと思うほど柔和な老人だった。それまでに私はかなりのベトナム・フリークになっていた。なぜかと問われれば、ビジネス交渉や日常生活で触れるベトナム人の気質と、世界で唯一アメリカに勝ったという事実への畏敬の念がそうさせたのだろう。

 ベトナム人の辛抱強さと勤勉さ、さらに鈍感ともいえそうな冷静さに感心したのである。戦争博物館では見るに堪えないような被害写真を展示しながらも、ことさら大仰に訴えるでもなく、外人観光客に冷静に対処していたし、契約交渉では他国で経験するようなご当地風を吹かせるでもなく、彼らは居丈高でない「しつこさ」を発揮した。相手に譲歩を迫るというより、時間をかけてじっくり粘り、労を惜しまず主張し納得してから妥協する。
 戦闘もこの戦術だったのかと想像したものだ。
「ベトナムはアメリカに負けない、なぜならベトナムは12世紀以来800年もクメール、中国、フランス、日本、アメリカと戦ってきた。たった200年のアメリカに負けるはずがない」とあるベトナム軍人が言ったと言う。「しつこい」わけである
 このベトナム人の辛抱強さが、米軍タイヤからホーチミンサンダルを作り、北爆の不発弾から小銃の弾をも作ってしまうことに通じるのだろう。だから感動して、つい人にも言ってしまう
「もったいない!物は捨てずに最後まで使おうよ」と。
 だが、デフレ克服の日本では消費拡大が優先して、物を大事にせよという時代遅れな台詞は流行らない。「もったいない精神」は地球にも成熟社会にも優しいはずなのにアベノミクスに反するとは、果たしてそれでいいのだろうかと気がかりになるばかりである。

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