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エッセイ・コラム

私の少年時代と大東亜戦争(四) 大本営発表の嘘

阿部 典文

「軍艦マーチ」で始まる戦果発表は、軍国少年にとり気持ちが昂揚する報道であり、私は何処からか入手した米国海軍艦種別一覧表に、撃沈された敵の艦艇に「×印」を記入して戦果を満喫していた。

 ところが第三次ソロモン沖海戦(十七年十一月)の戦果発表では、ミッドウエー海戦(同年六月)で沈んだ筈の米国海軍の航空母艦ホーネットを撃沈したとの大本営発表が為され、疑問を持ち父に話したところ、あっさりとホーネット型の空母だろうと云われその時は納得した。

 然し戦局の進展に伴い次から次に発表される戦果を積算すると、知らぬ間に一覧表記載の艦艇はすべて×印となり、さらに×印は表の欄外に伸びて行き、子供心にも大本営発表に疑問を抱いたことを今でも鮮明に覚えている。

 この疑問は終戦後明らかにされた。すなわちミッドウエー海戦でホーネットは大破したが、日本側は沈没を確認せず憶測で撃沈と発表。しかし修復なったホーネットはソロモン海戦に参加し、そこで日本軍の魚雷攻撃により海の藻屑として消え去っていた。
 さらに驚くべきことにミッドウエー海戦戦果発表では、日本側の損害は「わが二空母・一巡艦に損害」と報道されたが、実情は日本海軍の虎の子の「赤城・加賀」などの四隻の航空母艦を失い、太平洋上における海軍力は逆転して日本は以後洋上の制空権を失っていた。

 このミッドウエー海戦では、海戦の立役者が航空機に移行した事が実証された。そこで米国はその工業力を駆使してハワイで失われた戦艦の補充は勿論、航空母艦特に商船護衛の為の小型航空母艦を大量に建造(全戦争期間を通じ約百数十隻)し、拡大する戦線への物資補給の円滑化を推進する「シーレイン防衛」に海軍の戦略を転換させていた。

 このような米国海軍の戦略転換に対し、日本海軍は旧態然とした大艦巨砲主義に留まり、多くの海戦で戦術を誤り艦艇の消耗が加速されて行った。
 そして勇ましい軍艦マーチで始まる「大本営発表」は、誇大報道に終始し、一方国民は、日本の誇る戦艦「陸奥・長門」などがまだ健在であった為戦勝気分に酔い痴れていた。

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