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エッセイ・コラム

校庭

西田 昭良

 白い姿の傷痍軍人が募金箱を前に、松葉杖をつき、ハーモニカを吹きながら街角のあちこちに立っている。終戦から四年ほどが経って復興の兆しは見えてきたものの、世情はまだまだ落ち着きを取り戻していない。僕は十五才、中学三年生。
 その年の十月といえば、来春にやって来る高校入試に気忙しい時期なのに、高をくくっているのか、或いはどうにでもなれとヤケになっているのか、勉強もせずに、仲間を集めて同人誌を作って遊んでいた。中身は詩や俳句や雑文などの寄せ集め。
 今は手もとにその刷り物などとっくに無くなっていたが、当時編集を担当していた友人から、偶然ガラクタの中から発見したので進呈する、と送られてきた。戦後の質の悪いザラザラ紙にガリ版刷りした文集なので、全体がセピア色に褪せて、所々文字の解読も困難ではあったが、その中に昔のままの姿で居残っている自分を発見した時、胸が詰まるような郷愁を覚えた。
 このまま消滅させてしまうのは惜しいと、文集の中の我が小品の一つをパソコンに甦らせ、遺すことにした。タイトルは「校庭」。

『放課後。誰もいなくなった教室。汚れたガラスが不思議に美しい。ローマの色彩ガラスのように教室がそのまま冷えてくる。「授業」即ち「生活」という旅装を解いて僕は武蔵野の太陽に向かっている。
「人生とは」「人間とは」哲学的文字の曲がりくねった理屈よりも、どんなにかしみじみと僕の胸に画かれるひとときである。
 風が吹いているのだ。蹴球のボールが黙ってうなづき合っている。麦の穂が金髪をそろえ遠くグランドを囲んでいる。食糧の平和な旗のように、麦畠にときどき大きな波が起る。雨をふくんで膨らみのある大地に胸をすりよせて燕が飛んでいる。
「こんなに美しい校庭だったのか」真昼の乱雑な風景は沈み、新しい大地の新しい感覚が僕の心にしのびよる。
 戦争の崩れはてた断崖に、それは一輪の百合のように強烈に匂うもの! ぼくらの校庭には新しい夢が緑にむせかえっている。
「講和」も「冷い戦争」もひとときは全く忘れて、「故郷」がある、「校庭」がある。そして僕というたった一つの動物が立っている。
 枯葉が落ちて来た。案外風がつよいんだ。こんなところで「アンダンテ・カンターヴィレ」をきいてみたいなと思った。』

 一、二か所、文字が虫に食われて、解読不能なところがあったが、推測して繕った。思考不足や未熟な表現もあったりするが、多情多感な少年が浮かび上がってくる。こんな時もあったのか、と懐かしい。
 文中に出てくる「アンダンテ・カンターヴィレ」について。
 その頃、他校ではいざ知らず、我が校には男性教師の宿直制度があった。毎日シフトを組んで、校舎の端にある宿直室に先生の一人が泊る。
 月に一度は廻ってくる贔屓の先生が当直になると、放課後、いや夕方から、気の合った生徒たち五、六人が押しかけて、深夜まで談笑が続く。時には生徒たちがわずかな小遣いをかき集めて手に入れた合成二級酒と肴を持参して。現在ではこんな無軌道ぶりが許される筈もないが、当時の巷には自由と平和が漲っていた。
 僕たちが囲む先生は大学出たての数学教師、愛称〝文ちゃん〟。数学の話なんかそっち退けで、テーマは決まって稚拙な人生論や文学論、恋愛論などであった。
 口角泡を飛ばして疲れると、頃を見て音楽鑑賞。文ちゃんが持ってきた自前のクラシック・レコードを存分に聴かせてくれた。主にチャイコフスキー。「アンダンテ・カンターヴィレ」が特に僕のお気に入りだった。あの何か物憂い、哀愁を帯びた旋律。
 その頃、大阪から風のように転校してきた一人の女生徒が僕の中で静かに揺れていたのを、今も忘れない。
「シェーン(青春)、カム バック!」

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