私の少年時代と大東亜戦争(五)…山本五十六元帥の死
昭和十七年後半攻勢に転じた米軍との南太平洋における戦いは熾烈を極め、その様子を小国民新聞は「半年余のこの苦闘・南太平洋方面の皇軍」と報じ、「転進」との表現でガダルカナル島よりの撤退(昭和十八年二月)を報じた。
加えて「敵は機械力を使用して新たな占領地に飛行場を作り、空軍をたくさん送り込んでいるが、わが軍は一千キロ遠征しなければならずこの方面の空の勢力は敵の手に握られている」とし、「近代戦では空を抑えた方が勝つ」との報道により初めて劣勢を伝えている。
さらに一般紙は 「アッツ島に米軍来る・守備隊との間に激戦中」との第一報を同島への米軍上陸四日後に伝え、戦況の続報を掲載した後、「壮烈アッツ島守備隊・大敵に最後の突撃・玉と砕けた二千の英魂(昭和十八年五月)」との見出しで大東亜戦争中の最初の日本軍の「玉砕」を報じた。
このような戦局の中で、前線視察中の山本連合艦隊司令長官搭乗機が四月十八日ソロモン上空で撃墜され、その戦死が五月に発表された。
私にとって太平洋戦争のキーワードとなっていた海軍のエース「山本元帥」の死は少年なりに受け入れ難く信じられないニュースであった。
小国民新聞も「勳は不滅 ああ山本元帥 大勲位功一級に付し、特に国葬を仰せ出さる」と報じ、「山本精神を学ぶ」との特集を組み、「口数の少ないがまん強い少年で、長岡藩士として明治新政府と戦いに敗れた祖父の無念を忘れず常に猛烈な勉強」などと少年時代の人となりを詳細に伝え、少国民の鏡として私の心に強い感銘を与えてくれた。
そして「海行かば水漬かばね、山行かば草むすかばね・・・」の歌詞を持つ雄渾かつ荘重な音曲吹奏の中の国葬の模様がラジオで流され、全国民に時局の重大さを語りかけた。
以後「海行かば」の曲は「玉砕」を報じる大本営発表のテーマー曲として、戦勝を報じる「軍艦マーチ」を抑えて度々登場するようになり、少国民なりにひしひしと戦局悪化を感じ取っていた。