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エッセイ・コラム

私の少年時代と大東亜戦争(六)…路地裏の少年たち

阿部 典文

 昭和十七年の後半から戦況は日に日に悪化してきた。小国民新聞は、ソロモン群島方面は大東亜戦争の関が原であり、米国も死に物狂いで反撃と最前線・ガダルカナル島の戦況を報じたが、路地裏には天真爛漫に遊ぶ少年たちの声が満ち溢れていた。

 遊び道具の三種の神器はメンコ・ベーゴマ・ビー玉であった。当時すでに大人の世界では物資の統制と配給制度が開始され、親公認の子供の集会所・駄菓子屋の店先にもその影響が現れはじめた。中でも最も影響を受けたのが鋳鉄製のベーゴマであり、重金属回収の煽りを受け店頭から早々と消え去っていた。

 子供は遊びの天才、そこで登場したのが古くなり片隅に放置されていたベーゴマの回春手術。
 例えば磨り減り安定を失ったベーゴマの軸をコンクリートの床で磨き上げて先端を尖らせ、バケツの上に貼ったテント布地の土俵への粘着力を強化したり、丸い縁を削って多角形として、コマ同士が衝突する際の衝撃力を増大させて相手を跳ね飛ばし易くするなど、大人が驚くような工夫で遊びの質を維持していた。

 一方昆虫採集、特にカブトムシの採集も人気のある男の子の遊びであった。幸いにも私の自宅は新興住宅地ではあったが、武蔵野の面影が残り、古い荒れ果てた土葬の墓地を取り囲むようにクヌギ林が広がっていた。  カブト虫は夜行性であり、採集は深夜か早朝が適していた。しかしその採集地・クヌギ林での夜間の採集は、不気味な雰囲気に包まれた墓への恐怖と、カブト虫を捕獲したいという欲望の相克の中での活動で、その「恐怖の報酬」は素晴しい角を具えた雄の捕獲であり、虫篭の中のカブト虫は、年少の少年たちの羨望の的となった。

 勿論流行歌の替え歌も路地裏の少年たちの得意芸の一つ。センチメンタルな歌詞故に発禁された『湖畔の宿』のメロディーで、「タコの遺骨はいつ帰る、骨がないから帰れない…」と「靖国に帰る英霊」には礼を欠いた替え歌を無邪気に歌っていた。

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