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エッセイ・コラム

沈黙する携帯電話

金京 法一

 現代の生活パターンの中で、携帯電話ほど便利で、ほとんどの人の生活に浸透している機器は少ないであろう。私も使っている。ただ通話のみで、メールはほとんどやらない。ゲームやネット検索などやったこともない。もともと携帯電話を始めたのは家内との連絡のためで、私が街に出かけているとき、買い物の依頼があったり、いつ帰宅するかとの問い合わせなどであった。ただ私は耳がちょっと悪いのか、街の喧噪のなかでは着信音が聴きとれず、家内によく文句を言われた。

 家内の死で、私の携帯電話はお役御免になった感がある。三か月近くになるが、その間誰からも掛ってこない。もともと夫婦の間の連絡用であり、他人に私の番号をほとんど教えていないので掛ってこないのは当然であろう。携帯電話は沈黙している。

 それでも私はいつも携帯電話を持ち歩いている。家の中でもいつも身近に置いている。一つには携帯電話に組み込まれている万歩計に興味があるからである。私にとっては唯一の運動の記録である。夜寝る時には枕元に携帯電話を置いている。何かあった時に、隣家に住む娘に連絡するためである。ただ、万が一着信音が鳴り響き、ボタンを押すと家内の声で「ああ、わたし」と言われたらどうしようと、期待とも恐怖とも云えぬ複雑な思いに取りつかれることもある。沈黙する携帯電話は時には不気味な存在である。と同時にそれは過ぎ去った妻との時間をも封印するもののようである。

(二〇十四年一月七日)

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