作品の閲覧

エッセイ・コラム

私の少年時代と大東亜戦争(八)…東京空襲の激化

阿部 典文

 帝都東京防衛の生命線と考えられていたマリアナ諸島は、十九年八月初旬陥落。米軍は直ちに長距離爆撃機B29の発着可能な基地建設に着手し日本本土空襲の準備を進め、早くも十一月二十四日護衛戦闘機を含む百十一機の大編隊による東京大空襲が開始された。

 当初空襲の目標は軍需工場とされ、東京郊外の航空機製作所などへの爆弾による攻撃が主体であったが、高高度よりの爆撃は精度が低く効果が疑問視された。
 そこで日本の都市構造の弱点を研究した米軍は、所謂ナパーム型脂焼夷弾による焦土作戦にその戦術を切り替え、一般市民を巻き込んだ無差別の「戦略爆撃」が開始された。その嚆矢が二十年三月十日未明の東京・下町地区への大空襲であった。

 灯火管制下の暗黒の東京上空に達した総数三百三十四機の大編隊は、まず照明弾を投下して目標を定め、波状攻撃による高度二千米前後の超低空からの焼夷弾爆撃を繰り返した。
 この爆撃の被害は関東大震災を超え、死者約八万四千人、焼失家屋約二十七万戸、罹災人口は百万人余りとの記録が残されている。

 当時私は、集団疎開より縁故疎開に移行する為東京に帰還していたので、空襲の初体験は二月十六・七日の艦載機延べ千六百機による地上銃撃攻撃であつた。
 当日は十五センチ程度の積雪に加え降雪が見られ、低くたれ込めた雪雲の間から突然超低空で現れる精悍な姿の戦闘機からの銃撃であった。攻撃は真正面から行われ、操縦士の顔が見えたような記憶が残されている。しかし私には、恐怖感よりは地上に落下し散乱した機関銃弾に興味が集まり、空襲後その幾つかを収拾し路地裏の少年仲間に披露し自慢していた。

 引き続いての下町大空襲は、爆心地が離れていた為我が家の庭の防空壕から、花火のように落下する焼夷弾と、夜空を真っ赤に染めた火炎を眺めることになった。加えてこの大空襲で親をなくした多くの疎開児が生じた事を知り、楽天的であった私も空襲の恐怖を厳しく感じ取っていた。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧