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エッセイ・コラム

始まりは2πrから

木村 敏美

 世の中は人柄の判断をよく血液型や理系文系に分けて決めたりする。勿論科学的根拠は無いが、妙に当たっていたり、変に納得したりもする。私が人は理系の人と文系の人がいると実感したのは、新婚の頃のある経験からであった。

 たまたま漬物を漬けようとした時、桶はあるが重し蓋が無いので、夫に作ってくれるよう頼んだ。すると何か計算をしている。ふと見ると2πrの字が見えた。漬物桶は下の方が少し小さくなっているので、中程の円周を計り、πで割って直径を出し、桶の厚みを引いて計算したそうで、ぴったりの重し蓋を作ってくれた。
 四十五年も前の事だが私が忘れられないのは、蓋ではなくこの2πrの文字であった。と言うのも私は理数が苦手で、難しい理数の勉強ほど、普通の生活には何の役にも立たないと思っていた。しかし、私にとってπやrのような文字が、身近な生活に使われ役に立っているのは大きな驚きであった。

 月日が流れ、夫が定年退職後、趣味で小さな山小屋を建て屋根付のベランダを作った時、今度はノートに沢山の√の文字を見た。屋根を支える柱と柱を補強する「筋交い」という部材を使うが、その長さの計算をしているのだそうだ。又、傾斜の付いた屋根の裏側の部分でも三角関数や相似まで使って計算したらしい。見るのも嫌だったπや√がこんなに身近な生活に役立っているのを再び思い知らされた。全ての始まりは2πrからである。

 考えてみれば人間の生活の基盤は理系から出来ている。衣食住の根本は理系だ。どんなに美しい建物でも風雨や地震ですぐ壊れる様では元も子もない。基本は理系で作られ、文系の美しさや心地良さが加わって生活を豊かにする。文学や絵画音楽等どれ程心を豊かにしてくれた事だろう。私も若い頃、本が好きでよく読んだ。沢山の感動とワクワクした楽しさは、私の心の支えとなり人間的成長にも役立ったと思う。文系の有難さである。理系の大切さも分かったが今更パソコン等勉強する気にもなれず、私に似たのか理数が苦手という中一の孫娘に「解らないまま進まないようにね」と忠告するのが関の山である。

 以前夫が娘のパソコンを修理した時、娘から「大学教授より役に立つ」と言われ、それ以来事ある毎にその言葉を口にし自慢げであるが、文系の私も出番が無いわけではない。ふと、ショパンの恋人の名前や歴史上の人物等を言うと驚いて話を聞いてくれる。私はこの時とばかり熱弁をふるう。しかし、これこそ実生活には役に立たない事ばかりだけれど。

 先日夫婦で大阪に行った。宿泊先は全国的なグループチェーンホテルで、歩いていく途中で分からなくなり、夫は地図を広げて探していたが既に薄暗くなって見え難くなかなか見つからない。ふと見るとビジネスマン風の男性がコロ付きのスーツケースを引いて急ぎ足で歩いている。以前利用した時客層を掴んでいた私は、同じホテルだと直感し、付いて行くと目的のホテルであった。文系はこういう直感も働く。
 2πrを見たあの日から生活はさほど変わっていない。理系文系両方得意にこした事はないが、こんなにはっきり分かれている夫婦でもここまで来たのだから、これはこれで良しとしよう。ただし、生まれ変わってどちらかを選ぶとしたら私は理系を、夫には文系を希望する。 

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