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エッセイ・コラム

忘れえぬご馳走

西田 昭良

「今夜はすき焼きだよ」
 母の声に、小躍りして喜んだ。太平洋戦争末期、日本全土が極度の食糧難に陥っていた頃である。
 鉄鍋の匂い、油の弾ける音。やがて、醤油と肉の焦げる匂いが野菜と混じり合って部屋中に充満してくると、両顎から唾液が一気に噴き出し、箸が宙を舞った。久しぶりの夕焼けに染まる我が家の宴である。
 だが不思議にも、その中に母の箸がない。しかし、それを心配している暇もない。
 翌朝、母は驚愕の告白をした。昨日食べたすき焼きの肉は、実は、飼っていたヤギの花子の肉だった、可哀想で箸をつけられなかった、と言うのである。
 驚天動地の衝撃が全身を走り、思わず口を押さえたが、花子はもうとっくに僕の体の一部になっている。
 自分の名前を完全に認識し、呼べば応えるほど利発で、誰よりも僕に懐いていた花子。少し青臭い花子の乳は僅かではあるが家族に精気を与えてくれていた。
 その花子が、急に姿を消したのは、数日前だった。空襲の激化で疎開させた、と父は言ったが、実は職場で仲間とさばき、それぞれ家に持ち帰ったのが真相だったらしい。
 僕を欺き、更に花子の肉を偽って家族に食べさせた父を、鬼とののしった。だが父は、人間は牛や豚を殺して食べるものだ、と罪の意識は薄かった。
 知らなかったとはいえ、お前を食べてしまったことを、花子よ、どうか許してくれ。僕とお前とは一心同体、一生離れることはないのだ。
 涙袋を押さえながら、形見であった餌箱を庭の片隅に埋め、「花子のお墓」を建てた。
 おいしいご馳走の、だが、この上もなく悲しい味が忘れられない、少年の日の出来事である。
 飽食の時代。そしてグルメが至る所で賑わっているが、それらはすべて自然の動植物の犠牲の上にある。
「○○のミックス」とやら。日本国民はまたもや尊い摂理を忘れかけようとしているこの時勢である。

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