作品の閲覧

エッセイ・コラム

修行する僧のタヌキに化かされる話

浜田 道雄

 これも宇治拾遺にあるお話。

 むかし、愛宕山に篭って修行する僧がいた。一日中経を読んで倦むことがなかったので、京の人々は彼を徳の高い僧と尊敬していた。山で狩りをして暮らす男もその一人で、日頃庵を訪ねては僧の話を聞くのを楽しみにしていた。

 中秋も過ぎたある日、男は久しぶりに米などを持って庵を訪ねた。僧は喜んで男を迎え、様々な話をしたあと、
「長年の修行が認められたのか、このごろ毎晩普賢菩薩さまが象に乗って庵に来られます。あなたも今晩はここに泊まって、拝んでいかれるといい」
 と勧めた。僧の世話をする小坊主も何度も拝んでいるという。
 そこで、男はその晩庵に泊まることにした。

 夜半も過ぎたころ、東山がほのかに明るくなると、庵の辺りが急に輝きだして、庭に忽然と象に乗った普賢菩薩が現れた。僧は大声で経を唱えながら、仏を伏し拝んでいる。
 男も一緒に仏を拝みながら、思った。
「徳を積んだ庵主に仏が見えるのはいい。だが、碌な修行もしていない小坊主や暮らしのために生き物を殺す私にまで見えるのは、おかしいのではないか」
 男は試してみようと思い、弓を掴んで菩薩の胸めがけて矢を放った。と、山を揺るがす大きな叫び声が上がり、辺りは真っ暗になって、菩薩の姿が消えた。
 僧は泣いて男を責めたが、男は落ち着いて答えた。
「庵主さまのように徳の高い方だけでなく、私のような罪人にまで仏が姿を現されるのはおかしいと思い、試してみたのです。本当の仏ならば、矢が当たるはずはありません。矢に当たって消えたからには、仏ではありません」

 翌朝庵の前から山の方に続く血の跡を追った男は、谷底に矢で旨を射られた大きなタヌキが死んでいるのを見つけた。

 これを聞いた京童は男を賢い人と褒め、僧を、
「経を読んでもわけもわからずでは、徳を積むどころか、タヌキにまで化かされる」
とあざ笑ったという。

 話はこれで終わりである。さて、この話は読者に何を伝えようとしているのだろうか。
 読者のなかには、この僧に同情する人がいる。経を読んで一生懸命修行しているまじめな僧を愚弄するのは、可愛そうだというのである。だから、僧を化かしたタヌキは悪者で、猟師に撃ち殺されて当然だという。
 一方で、経を読むだけで何も考えていなかったのだから、この僧は愚者だという人もいる。タヌキが化けた菩薩をなんの疑いもなく信じて拝み崇めるなど、愚の骨頂だ。そんな僧が人に侮られ、バカにされてもしかたがないと手厳しい。

 私はどちらかといえば、後の見方に惹かれる。が、この僧を馬鹿にする気にもなれない。経を読めば徳を積めるという教えをそのまま受け入れて修行し、タヌキの化けた菩薩を疑いもせず仏と信じた僧の愚直な生き方は、高度成長神話を信じて、Japan as No.1を実現するとがむしゃらに働きまくった自分たち世代の生き方とどこか共通するものがあるようで、少々落ち着かない気分になるからだ。
 タヌキにも同情するところがある。タヌキの役割は、他人のいうことを無批判に受け入れ付和雷同して恥じない人、形式を守ることにキュウキュウとして疑わない人をヤユして、世の人に何が大事かを教えようとしたのだから、あっさり殺されてしまうのは可哀想ではないかと思うのである。だから、彼を撃ち殺した猟師は「賢い人」かもしれないが、もう一歩知恵の足りない人だと足を引っ張っても見たくなる。
 いずれにしろ、この話は宇治拾遺物語のうちで、私がもっとも好きな話の一つである。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧